時間の問題

 どんな授業でも、終わったとき「もっと時間があれば……」と思う。
 今は数学を中心に教えているが、ほとんどの場合予定ほど進まずに時間切れで終わってしまう。焦ってムリに速く進めても生徒が悲鳴をあげるだけなので、最近はなかば諦観してなるようになれと思っている。ただ決まった分だけ進まなければならないことも事実で、結局どこかにしわ寄せがいってしまう。
 理科を教えていたときは、授業時間が少ないこともあり、授業中に問題演習をする時間をあまりとらず、説明や議論や実験で大部分の時間を使っていた。これでも時間が足らないことが多く、授業のプランをつくるときはいつも「(説明を)コンパクトに、コンパクトに」と自分に言い聞かせていた。そうするほど話の枝葉がなくなって面白くなかった。
 今教えている数学ではできるだけ全体の説明を短めにして、授業内で多めに問題を解かせるのだが、そうすると今度は計算の速い子と遅い子のギャップが出てくる。居残りさせる塾なので、解くのが遅い子を残してもいいのだが、遅いことをとがめるような形式にしたくないので、基本的には速い子も遅い子も時間内にできた分だけで終わらせている。つまり速い子の方がたくさん問題を解くわけで、これも一種の不公平だが、生徒に聞いてみると「今の方がいい」とも言うし、入試が近くなるまではこの方法を続けるつもりだ。もともと授業時間が短いこともあるので、本当は宿題を多めにして解説中心の授業にするべきなのだが、そこまで子どもを引っ張る気力がないとも言えるし、しごく気持ちがないとも言える。
 中学生が友だちどうしで問題を解いていると、お互いにスピードを気にし合い、あいつよりも速く……という感じで猛烈に速く解こうとする子が多い。そのような子たちは粘って考える問題になると、あまり時間をかけずにあきらめてしまうことが多い。解くのも投げるのも速いように思える。
 今年春期講習で中1の数学を持ったとき、カリキュラムの指定がなかったので、時間をあまり気にせずゆっくり授業をした。例題を1つ1つ丁寧に説明し、速い子には別にプリントで問題を解かせ、計算でもたつく子に1つ1つゆっくり教えて、8日間で正負の数のはじめから加減まで終わった。9日目が塾内テストで、テストを作る先生に進度を報告すると、「そんなところまでしかやっていないんですか!」と驚かれた(スミマセン)。その先生は他の教室で正負の計算をほとんど全部終わっていたらしい。そうできなかったわけでもないが、せめて中学数学の最初くらい、苦手意識を持たないようにじっくりやってみたかった。これは私の思い込みだけでもなくて、後で保護者の方に聞くと「春期講習の時は『よくわかった』と言っていました」という話も聞いた。(この生徒は中間テストの後でやめてしまった。春期のようなペースで続けていられたら、やめなかったかもしれない。)
 今の学校や塾で落ちこぼされている子のほとんどは、能力がないのではなく、急ぎすぎた説明や少なすぎる演習時間のためにそうなっているように思う。かつてゆとり学習とかいって授業時間が削減されたが、本気でゆとりを持って勉強させたいなら「9時間授業」にでもするべきだったのだ。一部の私学のように朝から晩まで補習漬けにしている学校の方が、勉強についてはゆとりがあるとすら言える。時間が長ければそれでいいというわけではないが、生徒が納得するまできちんと教えるということを保証すれば、それだけで随分学力も上がるし勉強嫌いも少なくなるだろう。

 計算にしても文章題にしても、考えるスピードには個人差がある。
 たとえば、ノートの準備をする・要点をメモするなどの作業は、努力次第でかなりスピードアップできる。しかし頭で考えることそのものの速さは、少しずつ速くなっていく面もあるが、どうしても個人差が大きい。似たような問題をたくさん解くとスピードがつくのは、考えるのが速くなるのではなく、パターンに慣れて考えるのを飛ばしていくからである。いちいち理屈で考えようとすれば、そう簡単にスピードはつかない。
 もちろん九九のような"基本の基本"は、考えるのではなく反射的に出てくるようにしなければならないが、いったいどこまでがそのような反射に頼るべきものなのか、はっきりした基準があるとも思えない。高校生になれば小学生の大半の知識は反射的に出てくるようになるが、それは必ずしも論理的に理解したからではなく、何度も経験して記憶パターンに刻み込まれたからに過ぎないことも多い。
 子どもには本来莫大な記憶力があるから、本人がその気になればほとんどの場合、問題の解き方を条件反射として自分自身に刷り込むことができる。それで問題がどんどん解けて点数も上がるから、放っておけば一部の子どもはどんどんその方向に進む。私はそれを「自動販売機化」と呼んでいる。優秀な自動販売機は、できるだけ多くの商品を持ち(パターンを記憶し)、スイッチを押せば即座に商品を出す(パターンにあてはめて解決する)。お腹の痛そうな客にコーヒーを出すのをためらったり、客に応じて商品を選んで勧めようとするのは、自動販売機としては失格である。自らを文字通り条件反射の機械として扱わなければ、自動販売機にはなれない。そして現在の入試問題の多くに対して、この「自動販売機」は有効に作動する。それを学力が高いと評価するのは危険だ。
 大学入試の数学の場合、難関校では時間不足で終わることが多いから、どうしてもスピードがある方が有利になる。東大や京大の問題を150分で解かせた場合と300分で解かせた場合では、おそらく高得点者は異なってくるだろう。短期決戦に強い方だけを選ぶ意味は何か。大学に行けば粘りが必要になるのだから、8時間かけて解かせて苦しませる手もあると思うのだが、どうなのだろうか。単に試験をする側の都合なのか、あるいは手早く物事を処理することが第一だという「思想」が含まれているのだろうか。

 勉強において速さが問題になるかどうかは、勉強を何のためにするのかという問いと関わっている。もし勉強が、人と競争するための道具か、あるいは将来仕事をテキパキできるようにするための訓練ならば、遅いことは無条件にマイナスと見なされるだろう。そうではなく、勉強を自分の中の個性を引き出す作業、それ自身を楽しい完結した作業として見るのならば、早い遅いは全く問題にならず、むしろフルコースをあわてて食べるのが勧められないように、ゆっくり味わって学ぶことの方が意義があるとも言えるだろう。
 もちろん人間に与えられた生理的時間は有限だから、いくらでも時間を使えるというものではない。オトナであれば他にやるべきことがたくさんあるから、勉強だけに時間を使っていられないというのもわかる。しかし子どもの本分は遊びと勉強なのだ。気がすむまで、完全に納得できるまで、面白さが体感できるまで、時間をかけてまずいことがあるだろうか。それは子どもにとってまずいのではなく、それを許さないまわりの環境が貧しいだけではないのか。
 さらに言えば、あわてないでじっくり考える習慣をつけた方が、深くものを考えることができる分だけ、むやみに速さを追求する子と比べても最終的に速くなるとも言える。当然だが「自動販売機」にはパターンからはずれた問題に対処する力はないから、あるところまでは早く行けても、そこから先はストップしてしまう。多くの子どもでそのような場面を見てきたし、私自身もそのような経験を持っている。要するに問題はスピードではなく、本物の考える力をどこまでつけられるかということだ。
 ゆとり教育を見直すというが、現行の週休2日制のまま教える内容を増やすことには賛成できない。人間が賢くなるためには考えるゆとりは絶対に必要だ。せめて今より授業時間を増やし、速く解ける子には別教材をさせるなど工夫して、より多くの子が十分理解できるような授業を、すべての学校でめざしてほしい。(2006/9/12)


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