MLへの投稿2題

理科教育MLへ投稿した文章を転載します。2006年7月〜8月の文章;

 現実問題としてすぐにはムリでしょうが、私は大学入試はなくした方がいいのではないかと思います。
 「入試でいい点を取れる子が結局得をする」というシステムが、小学校から大学までにいたる教育現場に対して様々な弊害をもたらしていると思います。
 >中3相手に「はじき」で教えている同僚もいました
 などという現状が許されてしまうのは、結果的に(その場しのぎでも)テストでいい点をとることが、入試のためにプラスになってしまうことが原因としてあるからです。
 私もそのような「付け焼き刃的作業」を実際やっているし、本当はよくないとわかっていても、入試の現実があれば、子どものためと思いながらレベルの低い教育をやってしまうことが日本中で横行しているのではないかと思います。
 実験をするヒマがあったら入試演習をする、という高校とか、6年分のカリを5年で終えて最後の1年は入試対策だけ、という高校の話を聞いていると、これらの現実が子どもに与えている「ダメージ」も相当大きいと思います。
 事柄の本質を理解すること、理屈で粘り強く考えること、社会に対して主体的に関わることなどが教育の目的だとすれば、今の入試システムがそれらに対してプラスに働いていない面がたくさんあるでしょう。
 理科について言えば、高校入試や大学入試の問題を見ていて、それらのテストが理科についての能力の偏った一部分しか評価できないこと、場合によっては本質とは関係のない能力(瞬発的記憶力など)の方がより高く評価されてしまう面があること、を感じます。
 試験を作る先生方も色々苦労されているのでしょうが、これは要するに、多様な能力を一律の試験で測ってランク付けするという発想自体がまちがっているのだと考えます。この発想を変えるのは「思想的」な意味ではしんどいでしょうが、制度自体を変えるのはそれほど非現実的ではないと思います。

>実際は学生は自分の適正や能力を加味し、進路を選択しているのではないでしょうか。
>中村さんのやり方では、自分の適正にあったところに落ち着くまでに時間がかかりすぎると思います。

 というのもわかりますが、現状では自分の適性や能力がどうであろうと、受からないところには絶対に行けないわけで、そもそも自分の適性を本当に考える(ためす)機会が与えられていないことになります。
 もし本当に大学がフリーパスになれば、おそらく高校生は(点数で言い訳できないので)今よりもっと自分の適性や志望を真剣に考えざるを得ないし、大学側も(そうしなければ人が来ないので)それぞれの個性や特徴を真剣にPRすることになるでしょう。
 適性を探すのに時間がかかりすぎる、というのもわかりますが、経済的なことだってあるし、適性を探すために10年も大学まわりをしたいと思う人がたくさんいるとも思えません(いるでしょうか?)

 すぐに何かを大きく変えるというのは確かに難しいと思いますが、塾だけでなく多くの学校、そして子どもや保護者が偏差値だの進学実績だのに振り回されている現状を見ていると、もう少しなんとかしたい、してほしい、と思います。
 入試勉強がすべてムダだとは思いません。役に立つ面もあるでしょう。
 しかし、ある一定の規格のテストの点数だけで人生のコースを決められてしまうようなシステムの中では、むしろ勉強が有害になることすらあり得ます。
 そういうことについて、教育に携わる人がどう考えておられるのか、本当に現状でいいと思っておられるのか、聞いてみたいです。


> 個人的には、学生の頃、学習指導要領で示される、「教える範囲」については、
> それ以下になってはならないけれども、
> クラスに何人かでも(例えば地震が起こる理由)等が理解できる子がいるならば、
> 学習指導要領を逸脱して構わないのではないか、と考えていました。
>
> 今回質問をさせて頂いたいきさつとして、私のような考え方だと、
> 「不公平をうむ」可能性があると学生の頃から言われていたからです。

 私はむしろ「指導要領を逸脱するべき場合がある」と思います。

 地震の話で言えば(もちろん状況によりますが)、地震の起こる大まかなメカニズムを中1に教えることは可能です。
 私は義務教育段階での最低限の教養として「地震はナマズのせいではない」ことを説明しておく必要があると考えますし、学校でも塾でもそう教えてきました。
 もちろんこれは私の主観であって、誰かにそれを強制したいわけではありません。しかし同じように、指導要領が誰かに「ここまでしか教えてはいけない」ことを強制する権利もないのではないか、と思います。
 どんな科目でも、何をいつどのように教えるかということは本来教師一人ひとりが責任を持って決めるべきことであって、指導要領に従って教えればよい、というのは一種の逃げに思えます。

 クラス全員が理解できるかどうかは難しいのかもしれませんが、私はこのような「自然のしくみを理屈で説明する」という事項についてはその場ですぐ理解できなくても、説明を聞いておくだけでも、すべての子どもに対して何らかの効果を持つのではないかと考えます。
 不公平を避けるためには、すべての子どもに考えて納得する機会を与えることが必要だと思います。
 その場での理解度や、ペーパーテストの点数には個人差が出るでしょうが、本質をきちんと説明すれば、そのような授業は(点数に関係なく)すべての子どもにとって意味のある作業になると思います。
 理想を言えば、すべての子どもに、教師の考える最低限の教養を持たせるように、授業形態や時間数・個別での指導法などを工夫するべきでしょう。しかしそれが不可能だとしても、教師が本当に必要だと思ったことについては、その時にできるベストの方法で、教えるべきだと考えます。

 もし指導要領に意味があるとしたら、教師間での不公平を小さくするということでしょうが(同じカリで教えても必ず「不公平」は出る)、私にはそれは結局「教師の不勉強」につながっているように思えます。

 なお 教育基本法が自民党案で改定された場合、指導要領に替わる法律が「強制力を持って」施行される可能性があります。私はこれに反対です。

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現行法;第十条
1 教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。

改定案;第十六条
1 教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない。
2 国は、全国的な教育の機会均等と教育水準の維持向上を図るため、教育に関する施策を総合的に策定し、実施しなければならない。
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 改定案を見る限り、教育は「この法律および他の法律の定めるところにより」行われるようになるので、その場合指導要領より一層法的拘束力を持つ法律または条例が策定される可能性が大きいと思います。
 ヘタをすると「進化論を教えてはいけない」「原子力の危険性を教えてはいけない」などという法律ができる可能性もあります。
 理科の先生ももう少し危機感を持った方がいいのではないか……と思うのですが、考えすぎでしょうか?



> 指導要領の縛りがないとしても、学習目的上、教えるべきであるか否かという
> のは別問題です。また、教える必要があると判断した結果、教えるとしても、
> それをどの程度・どのように教えるかの検討は、教師自身の責によります。

 私もそう思いますが、さらに進めて「指導要領の縛り通りに教えることにも、教師の責任が伴う」と思います。
 要するに何をどのように教えようが(教えまいが)、指導要領と関係なくその責任は教師が負うべきものだと思います。現行の教育基本法十条「国民全体に対し直接に責任を負って行われる」というのはそのように解釈するべきではないか、と私は考えます。

>  また、たとえば、高度な学習内容をあまりにも早期に与えることで、誤解や偏見を
> 定着させたり、後の学習に混乱を与える可能性も考えられます。
>  地震の原因は、マントル対流だと教えるのか、活断層が原因だと教えるのか、
> 地殻の歪みだと教えるのか、なにをどう教えるのがベストなのでしょう?
> 真剣に教えようと考えれば考えるほど、軽々に扱えないという気もしてきませんか?

 もちろんそうです。同じように「高度な学習内容を与えない」ことについても軽々しく決められることではないでしょう。

>  教科書は、教える(べき)内容を、適切な程度に扱えるように調整されているので
> 逸脱かどうかなどを考えずに学習を進めることができて便利ですが、
> 教科書外の内容を扱おうとするときには、頼るものがないので、本来、教師自身が
> 教え方について(評価方法についても)さまざまな検討をするべきなのです。

 私はそこまで教科書を信頼していいかどうか懐疑的です。本当に教科書の程度が「適切」なのでしょうか。
 生徒の状況や教師の能力によって、何をどのようにどのくらい教えるのがいいのかはそれぞれ変わってくると思います。
 中学生に小学生の教科書を用いた方がいいこともあるだろうし、高1に高3の教科書で教えた方がいいときもあるだろうし、この生徒にはA社、あの生徒にはB社のテキストがいいという場合もあるでしょう。
 子どもや教師の事情を無視して、学年だけに対応させて採用している画一的なテキストが適切であると考える方が、安易ではないでしょうか。
 教科書「内」の内容についても、教科書外の内容と同じようにさまざまな検討をするべきであって、それが行われないのならば(教科書が免罪符として扱われるのならば)教科書などない方がいいのではないかと、私は思います。

 こういった指導内容の検討という作業は、はた目から見れば、とても大変なことと
> 見えるかもしれませんが、実際はたいしたことではありません。
>  現場の教師ならば、クラスの生徒の雰囲気を読みながら、その場に応じて、
> 的確な程度に適切な内容の指導を加えることが、日常的に自然にできていると思います。

 できている人もいるとは思いますが……どうなんでしょうか。
 少なくとも私にとっては「たいしたことではない」「自然にできる」とかいう作業では絶対にありません。この作業が一番大変です。学校でも塾でも、この作業に膨大な時間を割かれてきました。
 塾の場合なら、学ぶ単元によって、あるいはクラスによって、もっと言えば生徒によって教材や教え方を検討し工夫することが、予習の大半を占めます。
 経験を積んだ達人ならば「自然にできる」のかもしれませんが、少なくとも「たいしたことではない」とは言えないでしょう。授業をするプロとしての教師の技術には色々ありますが、この部分が一番大きい(素人とは違う)面ではないかとも思います。
 同時に、このような指導内容の検討の中で教師の個性が最も大きく出てくるので、私にとっては、しんどいけど最高に面白い作業でもあります。


 (2006/8/19)(2006/8/24追加)


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