責任とるならいいよ

 福岡のオリンピック招致が流れてホッとした。引っ越す前の大阪でも五輪招致の話があり失敗したが、まさか自分が「五輪招致貧乏神」なんてことは……ないやろなあ。
 大阪も福岡も財政難でオリンピックどころでないのは明白なのだが、公共事業が減って青息吐息の企業もあるから、五輪招致にスポーツ以外の夢を託す人もいるのだろう。須崎埠頭の再開発計画が白紙になったらしいが、再開発の理由づけとして五輪が利用されていたことが、これであからさまになってしまった。
 いつも通る夜の博多駅構内では、段ボール箱を敷いて寝転がる人がたくさんいる。段ボールで寝なければならない人がたくさんいる事実は悲しいが、そういう人たちを駅員が追い出さず「宿泊」を許しているのは、大阪と違う博多のいいところである。家がない人にせめて屋根くらい提供するのが、国を愛する者として当然の勤めだ。しかしもし五輪招致が本格化していたら、おそらく"駅の中の段ボール"は許されなくなっていただろう。それだけでも五輪招致が失敗に終わった意味はある。
 ところでなぜ、そんなにオリンピックにこだわるのだろうか。このように「未来を担う子どもたちが選手たちの生の姿を見て感動するだけでなく、オリンピック招致活動とともに子どもたちが参加するさまざまなプログラムを用意します。子どもからお年寄りまで、世代を超えて共有できる夢を実現するために挑戦します。また、福岡がアジアの子どもたちの育成にスポーツを通じて貢献していける都市でありたいと思います。」と謳うのであれば、オリンピックがなくなったからといって落ち込む必要はあるまい。招致反対署名をした13万の人々も、スポーツそのものを批判しているわけではあるまい。世界中のスポーツ選手に趣旨を訴えて招待し、国際規模のスポーツ大会を福岡市が主催することは十分可能である。オリンピックでなければ選手村だのメインスタジアムだのをつくる必要もないから安くつくだろう。それでもお金はかかるだろうから、今回招致を訴えた人々が寄付を募るか自腹を切ればよい。五輪招致活動の先頭に立った財界人や政治家が財産を売り払う覚悟でやれば、税金を使わなくてもかなりのイベントができるだろうし、自腹を切るなら余分なお金を浪費する気にはなれないだろう。たとえそれで家を失ってホームレスになっても、博多にはいつでも泊まれる駅があるし、炊き出しもある。そうそう命を落とす心配はない。そもそもスポーツ大会のために財産を抛って一文無しになった人は、博多の誇りとして長く語り継がれるだろうし、私なら毎晩その人に差し入れをするだろう。博多駅中に招致のポスターを貼った人々には、そんな勇気も本気もないのだろうか。
 権力を持った人が何かを訴えるのなら、その言についての責任を負うべきだ。生徒に「中学生らしさ」を求める教師は、自ら「教師らしさ」を真剣に考え実践するべきだ。オリンピックを開きたい市長は、スポーツ大会に意味があることを自腹を切ってでも証明するべきだ。軍隊を認める憲法を作りたい政治家は、靖国に行って死者を顕彰するなどと言わず、兵が死んだことに対して自ら償うことだ。神社に行って慰霊するというのは、一般の人々がするならいざ知らず、軍隊を組織し命令し「殺した」政治家のすることではない。政治家がするべきなのは、兵が死んだことの責任をとることであって、たとえば日本兵が10人死ぬ度に戦争を支持した政治家が1人ずつ死刑になるべきであろう。国のために命を賭けるというのはそういうことだ。自分は安全で責任をとらずにいて、相手にだけ負担や責任を負わせるのは、数千万人を殺しておいてのうのうと生き続けた昭和天皇を最大の模範とする「醜い日本人」のすることだ。戦後の日本が悪くなったというなら、それは戦後民主主義とか日教組とかのせいではなく、まず第一に昭和天皇の「史上最大の無責任」を原因の1つとするべきであろう。"美しい国へ"とかいう本を書いている人殺し支持者である安倍晋三氏は、自ら美しくあるために、「日本軍人が1人でも死んだら私も死んでわびる」と言う気はないだろうか。軍隊を認める憲法をつくろうとするのであれば、そして国のために命を賭けると公言するなら、それが当然ではないか。
 私は人殺しがいやだから戦争に反対だが、それは突きつめて言えば「人を殺すことの責任を負うことができない」ということだ。教師が生徒に対してまちがったことをしてしまっても、その失敗をとりかえし責任をとる方法はたいていある。致命的なことでなければ、教師と子どもはお互いに責任をとりあうことができる。しかし北朝鮮が攻めてくるかもしれないから戦争をしようという人は、戦争によって自らが人殺しになることの責任をとれるのか。自分が知らない人だから、嫌っている国の人だから、赤ん坊だろうが老人だろうが殺してもいい、仕方がないと本気で言えるのか。教育改革国民会議では「バーチャルリアリティは悪である」という発言があったようだが、戦争で人が死ぬ、人を殺すという重大なことをバーチャルでしか考えられないのは、むしろ今のオトナの方ではないのか。
 繰り返すが、権力を持った人間は同時に責任を負うべきだ。税金を使う人間は、ムダに使った分を自腹で返すべきだ。消費税を上げる政治家は、自らが優遇されるような年金制度を捨てるべきだ。子どもへの体罰を肯定する教師は、生徒から殴られても文句を言わない覚悟をするべきだ。生徒に学力をつけられなかった塾は、授業料を返すべきだ。間接的にしか知らないが、そういう塾も実在する。言い訳だが、私は不合格だった生徒にはとりあえずご飯をおごることにしている。それで責任をとったとは思わないが、逆に言えば前述したように、お金を返さなくても教師と子どもの間には「責任をとる方法」がある。同じようにオリンピック招致のために大金をはたいた市長にも、自腹でお金を償う以外に責任をとる方法はある。その入り口は自らの「無責任」を認めることだ。さらに同じように集団的自衛権だの軍隊だのを提唱する人は、自らが人殺しを提唱することの「無責任さ」を認め、新たに自らの命をもって「責任をとる」ことを宣言することでしか、その言論について責任をとることはできないだろう。権力者がそのようにふるまわない限り、この国は醜いままであり、誰が何を言おうがどんどん醜くなっていくだけだろう。(2006/9/8)


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