教育の目的は子どもが知っている

 教育基本法改定が国会で審議されている。多くの人が指摘しているように、またここにも書いたように、この改定案の本質は"愛国心"ではなく、現行法第十条を変えることにある。再度掲げる;


現行法;第十条
1 教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。
2 教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。
(補則)第十一条
 この法律に掲げる諸条項を実施するために必要がある場合には、適当な法令が制定されなければならない。


改定案;第十六条
1 教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない。
2 国は、全国的な教育の機会均等と教育水準の維持向上を図るため、教育に関する施策を総合的に策定し、実施しなければならない。



 現行法第十条の「不当な支配」とは、行政や政治による教育への介入という意味である。たとえば教育基本法制定前後につくられた「教育基本法説明資料」には

 従来教育は軍官等の不当な支配に服してきたが、今後は又政治的な不当な支配に服することが考えられるし、不当な支配に服することなくと謳った。然し教育者の独善はあってはいけないので、教育は国民全体の意志を体し国民全体に対する責任を負って行はれなければならない

 あるいは、教育基本法が成立した直後に文部省内の「教育法令研究会」という部局がつくった『教育基本法の解説』という本には

 ……この制度の精神及びこの制度(注;戦前の教育制度)は、教育行政が教育内容の面にまで立ち入った干渉をなすことを可能にし、遂に時代の政治力に服して、極端な国家主義的又は軍国主義的イデオロギーによる教育・思想・学問の統制さえ容易に行われるに至らしめた制度であった。
 更に地方行政は、一般内務行政の一部として、教育に関して十分な経験と理解のない内務系統の官吏によって指導されてきたのである。このような教育行政が行われるところに、はつらつたる生命をもつ、自由自主的な教育が生まれることは極めて困難であった。
(下線は引用者による)

 以上に挙げたようにこの現行法第十条の文章は、行政および政治の教育に対する介入を禁止したものである。しかし現状では、学習指導要領は事実上法律に準ずるものとして扱われ、指導要領による指導だとして思想の自由を侵害したり、指導要領に反した教え方をした教師が処分されるような事例もある。つまりすでに行政や政治は教育に介入しているのであって、今回の法律改定は現状を追認しさらにこの「不当な支配」を強めるためのものである(そうでなければこのような文章の改変は必要ない)。
 上の文章に書かれているように、教育内容について行政の介入が行われれば「はつらつたる生命をもつ、自由自主的な教育が生まれることは極めて困難」であろう。私自身教え方を人に教わることはたくさんあったし感謝しているが、教え方を強制されることによってプラスを感じたことはない。私が教師として成長し生徒の役に立っている面があるとしたら、それは自ら工夫して行った多くの試行錯誤の結果である。指導要領に従ってすぐれた授業を行っている教師もいるだろうが、それは指導要領のおかげではなく教師の努力の成果でしかあるまい。要するに教師の主体的な努力がなければ法律は無意味であり、教師の努力を奨励し支持するような法律しか子どもにとって意味はない。

 多くの報道では「愛国心」の方がより問題視されているが、愛国心が具体的にどのように教育内容に反映されるかわからない現状では、煮詰まった議論はできないだろう。むしろ現行法第十条が変えられれば、後からつくる法律によって愛国心の"内容"はどのようにでも決められるから、それがわからない状態で法律を変えようというのは議論を避けていることになる。(愛国心についてはこちらも参照)
 さらに教育が「国民全体に対し直接に責任を負って行われるべき」ものではなく「この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべき」ものになれば、子どもにどのような問題が起こっても、法律に従っている教師に対して責任を問うことはできなくなる。これはいわば教師の「役人化」であり、おそらく現状に対して最悪の選択であろう。もっともこのことに対して現場の教師から反対の声が上がらないとすれば、それは既に多くの教師が役人化していることを示しているのかもしれない。


 私は教育者の端くれとして、教育の目的や内容が法律で決められることに反対する。教育は子どものためのものだからだ。
 子どもがどういう人間になりたいか、何を学びたいか、そのことを一番よく知っているのは子ども自身である。極端に言えば、オトナはひとりひとりの子どもと相談して教育の目的と内容を決めるべきなのだ。その権利を子どもから取り上げオトナの決めた法律に委ねるのは、教育でなく洗脳か飼育だ。
 それは、子どもの言うことに従うことではない。子どもの言うことを拒絶することも叱ることも、もちろん必要だ。それでもなお、子どもの心底にある「いい人間になりたい」「人を愛していきたい」「世の中で役に立ちたい」等々の意志を信頼し、その意志を実現するために必要な環境と教育を提供することが、オトナの仕事である。もし子どもがそのような意志を見せないのなら、それはオトナが子どものそういう部分を押しつぶしてきただけだ。オトナがつぶしたものはオトナが治していくしかない。心のつぶれた部分を修復する援助をしながら、人間が幸福に生きることの意味を根気よく説得するしかない。

 20年近くこんな仕事をしてきたが、私は"生まれつき"勉強がきらいな子どもを見たことがない。いるのはただ、勉強を嫌いにさせられた子どもだけだ。理由のわからない暗記、本人の状況を無視したわかりにくい授業、他人との競争とそこからくるプレッシャー、子どもの頃の勉強を活かせないオトナの実例…… そのようなものに漬かっていて、なお私の目の前の子どもは「わかりたい」「解けるようになりたい」「勉強の面白さを味わいたい」と言う。それは入試のためでもあるだろうが、本当に勉強の魅力にはまって夢中で勉強している時の子どもの頭の中に"入試"があるようには、私には思えない。私が教えていた化学の好きな高3の子は、メールで入試とは関係ない大学レベルの質問をしてきてはやりとりを楽しんでいる。中学入試が終わったばかりの子を芥川に連れていってプランクトン見学会をしたとき、顕微鏡の魅力にとりつかれた子は入試勉強並みに熱心にやっていた。子どもが一番熱心に勉強するのは、勉強が面白いと感じるときだ。おそらく世界中の多くの教師にそのような経験があるだろう。

 オトナに要求されるのは、そのような勉強の面白さを子どもにしっかり伝え、その中で子どもの才能を子ども本人と一緒に掘り起こし、子どもの才能を社会で活かす方法を探して見つけることである。
 具体的には、勉強が面白いことを実感させることだ。そのためにはすべての子どもにわかるような勉強を、教える側が工夫し環境をつくればよい。これは本気でやれば不可能ではない。私のような3流教師でさえ、勉強の面白さを伝える力が少しはある。日本中の人々が力を合わせ、点数を人と比べるという「面白くない」作業をやめ、入試のためのバラバラの知識でない体系的なものとして勉強を教える環境を整え、子どもの状況によって教師が子どもと相談しながら教え方を工夫していけば、今よりもはるかに「勉強が面白い」という子どもは増えるだろう。それは主体的に勉強する子どもを増やし、学力向上に直結するだけでなく、生涯学習を促進する結果を生むだろう。

 もちろんこれ以外にモラルとかしつけも教えなければならない。しかし民主主義を標榜するこの国で子どもが生きていくために一番いいのは、自分とその才能が大切にされること(甘やかされることではない)の意味を理解し、そのことによって他人を大切にすることの意味を理解することだ。自らが才能を掘り出しその喜びを味わった子どもは、他の子どもが才能を掘り出し輝いていくことを否定しないだろう。そしてオトナと一緒に学び成長する中で、人間が協同することでしか幸福になれないことを理解した子どもは、他人をいじめたり人を傷つけようとしないだけでなく、そのような行為をする他人を軽蔑し、自分の国がそのような行為に関わることを拒否するだろう。

 アメリカのテロを支持し、自らが人殺し組織である軍隊を公認したい今の日本政府にとって、そんなことは困るのだ。格差社会の中で権力を握った人間は、日本に住む人々が本当に賢くなって、世の中を変えようとするのがこわいのだ。だから彼らは決して真の意味での学力向上を望まない。かつて文化庁長官として"ゆとり教育"を推進した三浦朱門氏の有名な言葉「出来ん者は出来んままで結構、エリート以外は実直な精神だけ持っててくれればいい」「魚屋の息子が官僚になるようなことがあれば不幸になる」というのは、要するにそういうことだ。
 ちなみに彼は「今まで数学が私の人生に役立ったことは無く、大多数の国民もそうだろう。」とも言っている。彼の頭の中には、数学によって養われたはずの論理構成力は消えているらしい。東大を出たエリートがこんなことを言うのでは(彼のペンネームは東大の赤門から来ている)日本の子どもの学力が上がるはずもないような気がするが、三浦氏は10月22日に設立された「日本教育再生機構」の発起人のひとりである。彼は数学がわからないと言って悲しい顔をする私の教え子に向かって、何をしようというのだろうか。日本中の教師がなんとかしようとして苦労している「出来ん子」に対してどうしようというのだろうか。


 教育の目的をオトナが決めることは欺瞞である。もし目的を強いてあげるなら「人格の完成」だけでよい。オトナが何も言わなくても、子どもは自分で自分を賢くしたいと願っている。私は日々その思いを感じているからこそ、この仕事を続けていられるのだ。品格とか志などと総理大臣が言う必要はない。教育基本法に一番大切な文を載せるとすれば、「オトナは子どもを幸せにするために働け。子どもを幸せにする方法は子どもに聞け」だけでよい。私はそこまで子どもを信頼できる。それだけが、教師でいられる資格なのだ。(2006/11/1)


 左巻健男さんの文章 ブログはこちら

○教育基本法改正と理科教育の関係は、とくに「愛国心」をめぐるものになると思います。

 国を愛する、というのを強制するときには、「日本の伝統」などが付随しますが、そのときに情緒的な「自然の畏敬の念」などが強調されます。自然を科学的に体系的に見ていくということはそういう情緒的なものとぶつかります。

 いま、学習指導要領改訂の作業が中教審で停滞していますが、それは教育基本法改正とリンクしているからです。さらに教育再生会議の結論待ちでもあります。

 教育基本法改正でどういう形でか愛国心が入れば(それを入れることが今回の一番のねらいです)、学習指導要領はその枠に縛られます。自然を情緒的に見ることと科学技術立国の方針を妥協させるためには、理科教育を科学的な自然観を養うものにしないで(たとえば「進化」をバックボーンにした生物教育にはしない)学習内容を断片化しつつ、一部科学技術推進で必要な部分を「復活」させることを考えるでしょう(体系性より個別性)。

 最近、文部科学省側の理科教育関係者からは「日本的理科教育」などが唱道されています。科学教育学会長さんは日本の理科教育は科学を教えているのではなく、自然界の事物は霊を持っているというアニミズム的な考えがあり、それは今後アフリカやアジアの理科教育に影響を与えることができるというようなことを述べています。

 「愛国心」の強制には、従順な人間の育成を目指す教育方針が必要です。 今回、必修問題で学習指導要領のあり方を「見直す」ことも出てくると思いますが、ぼくは教育基本法改正と絡むと脆弱な法的根拠の学習指導要領を強化する方向を恐れます。次期の学習指導要領では学習内容が目標化されます。それで学校評価、教師評価が始まるでしょう。

 日本の教育が「強制」「管理的」的側面を強め、「競争」主義で「学力向上」という方向性(フィンランドとは逆の方向性)になるのではないかと恐れます。



小波秀雄さんの理科教育MLの投稿

 理科教育に目を向けた場合には,直接的に社会に関わるテーマが扱われることが少ない,つまり価値中立的な面をもつために,介入が行われにくいように見えます。しかし,私が最近見たある教育委員会の下で作られているエネルギーに関するパンフレットでは,原発の必要性を強調する一方,放射性廃棄物の問題に一切触れないという内容になっていました。もしも指導要領においても同様の扱いがなされた場合,教科書に放射性廃棄物の問題は載せないようにできますし,現場の教師が自主的にその内容を追加することも違法とすることができることになります。

 というか,現状においてもそれくらいの強制は,指導要領に法的強制力があるとした最高裁判例(伝習館訴訟)の拡大解釈によってできることにされているのですが,教育基本法の改悪によって,強制は合法化されることになります。下手をすると環境問題に関わっている教師を追い出すことぐらいはできることになりかねない。

 理科教育が事実と論理をもとに物を考えることを教え,情緒や利害関係を廃した客観的な判断をできる人間を育てるという意義があることは,むしろ教育基本法を変えたい人間にとっては非常に邪魔なことでしょう。理科教育に対してもその刃は向いていると考えるべきです。

 転載させていただきありがとうございました。


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