カリキュラムと教師の自立性

 以前勤めていた私立学校で「学校5日制」が議論されていた時に書いた意見を載せる。1994年のもの。

 学校5日制に対する意見

・学校5日制については、単なる生徒の余暇の増加や教職員の労働条件の改善といった意味だけではなく、今のこの学校の制度(カリキュラムや教師側の組織の作り方)の改善をも含めた形で考えてほしい。

・しかし現実問題として、現在の教師の労働条件は(個人によって差があるにせよ)健全であるとは思えない。目の前の授業や生徒指導で手一杯の教師がいるとすれば、それはその教師よりもむしろ学校のシステムの責任ではないか。長い見通しを持って人間として成長できるような努力をすることも、教師にとって重要な仕事であると思う。そのための時間を保障することは同時に、教師一人一人が成長するための努力を、今までより多く求められるということでもある。したがって「学校5日制=教師の余暇の増加」ではない。1日の休日ができるとすればそれは、すべて生徒に何らかの形で還元できるようなプラスの時間として考えるべきではないか。単純な休息・外の文化に触れること・家族と充実した時間を過ごすこと……すべてそのように捉えることができる。教師自身のよりよい生活のためであると同時に、よりよい仕事をするための5日制にしたい。

・自分の経験から言えば、塾や予備校の一部は土曜日の午前中の授業をすでに始めている。この学校でもかなりの割合の生徒が塾通いをしていることを考えると、いきなり休みを1日増やすことは、土曜日の授業を塾に押しつけてしまうことになりかねない。また何をしたらいいか分からないまま無意味に時間をつぶす生徒も出てくるだろう。新しい休日の使い方は、最終的にはもちろん生徒に考えさせるべきであるが、今の段階で(少なくとも中学生は)そこまで自主的に行動させられるとは思えない。休日の過ごし方には様々な選択肢があるだろうが、今の生徒には自ら選択肢を頭の中に思い描き選び取る−−−本質的には、自分の選択肢を"作る"−−−だけの力(訓練・経験)がまだ不十分ではないかと思う。
 したがって当面は、ある程度の自主性を尊重しつつ、
 @学校においてもいくつかの選択肢を提供することと、
 Aより長期的な意味も含めて、生徒に「自分の生き方を自分で決める」ための知識・考え方・訓練などを授業その他で意識的に行うこと
が必要となるのではないか。この過渡期においては現在よりも教師の労働量が増えることも予想されるが、やむを得ないと思う。
 繰り返しになるが「選ばせる」ためにはそれだけの訓練と学習をさせるべきである。ただしそれは必ずしも学校が行う必要はない(家庭の方針etc.で決めることも当然あり得る)ので、生徒の家族にも5日制の趣旨を徹底させた上で、当面の生徒の居場所を選ばせることが必要ではないかと思う。
 学校として提供できることとしては、クラブ活動の他に、例えば理科の実験(授業と直接関係ないものでも)なども可能だし、ボランティア活動を紹介することもできると思う。この他にも教師や生徒・父母から多くのアイディアを募る価値がある(この部分に時間と手間をかけてほしい)。

・カリキュラムについての詳細は論じる自信がないが、できれば50分授業にしてほしい。それが無理なら、理科では実験等があるので、必要に応じて連続授業ができるようにして欲しい。50分集中力を持続させるのは生徒にとっては大変だろうが、他の学校と比べて精神的なスタミナに欠けている原因の一つになっているのではないか。
 カリキュラムについての最も大きな問題点は、いかに内容を精選するかにある。他の教科のことはよくわからないが、現在担当している理科(高校の生物・物理)については、現状の時間数でも教科書の内容を十分に教えられるとは言い難い。したがって入試対策としての授業と、最低限の教養としての授業を割り切って分割し(現状は中途半端ではないか?)、教科書の内容からさらに精選して詰め込み的要素をできるだけなくし、闇雲に暗記するのではなく論理的な思考ができるように教材を十分選ぶべきである。(この際教師一人一人の個人的判断だけでなく、教科ごとに十分な話し合いを望む) 私立であることの長所を十分に活かすためには、生徒の立場に立ち将来を支え得るような、本質的に重要な教養を与えることを授業内容の第一目的とするべきではないだろうか。(もちろんすぐに急激な改変は不可能であるが、今のこの学校の教師の能力を持ってすれば、独自の優れたカリキュラムを作ることが十分可能であると考える)

・私見を言えば、学校の授業だけで大学入試に対応できるようにするのは例外的措置であって、実際はほとんどの教科においてそのようなことは不可能であるし、その必要もない。むしろ松蔭を初めとする大学側に対して、入試の問題や制度等を改めていくように働きかけていくべきではないか。(例えば−−−現在の入試制度において、入学試験でよい点を取る生徒が必ずしも充実した大学生活を送り得ないのは、ある意味では大学側の責任でもある。大学の内部カリキュラムと入学試験のねらいが一致していないことが大きな原因であると考える。この部分を改善することは、高校のためと言うよりむしろ大学のためである。)したがってその意味からも、進路のための情報を十分与えることは必要ではあるが、入試等に対しての対症療法的なカリキュラムや補習はあまり意味がないと思う。


 補足;これは12年前の私の考えであるが、現在も考え方として基本的な部分は変わっていない。ただ現在の私は塾講師であり、この学校の現在に対して意見する意志はない。私学の直面する最大の問題は経営であり、その点からの別の視点があり得る。それは個々の私学の問題ではなく、教育行政、ひいては政治に対する市民の考え方の問題でもある。したがって外部者として学校運営に意見をする意志がなくても、子どもを支える者のひとりとして、学校教育をいかに支えていくべきかという意見はむしろ発するべきであろう。(2006/10/9)

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