炭坑の街へ


 先月になりますが、つれあい(妻)と2人で絵を見に行きました。
筑豊への地図  理科の先輩(東京の麻布高校の先生)から「見に行くといいよ」と教えてもらったのは、田川市美術館で開かれていた『炭坑の語り部 山本作兵衛の世界』。筑豊には一度行ってみたいと思っていたので、あちこち回ってみようと思い計画を立てました(以下日記風)。

 朝8時過ぎに博多駅から福北ゆたか線に乗る。山の間をぬって走っていくとどんどん田舎になる。いつも博多や宗像から見ていた筑豊の山が近くに迫って見えると、なんだか不思議な気持ちがした。
麻生飯塚病院  快速で1時間ほどで新飯塚へ。最初の目的地は飯塚市歴史資料館で、ここで炭坑の歴史などを見る。CGも使った解説はわかりやすいのだけど、あんまり面白くはなかった。特別展としてやっていた「柳原白蓮の生涯」が面白かった。白蓮さんは華族の出で(大正天皇のいとこ)大正三美人のひとりとも言われ、14才で結婚し5年後に離婚、その後女学校で短歌を学び、27才で筑豊の"炭坑王"伊藤伝右衛門と再婚するが、35才で労働運動家の宮崎龍介と駆け落ち。伝右衛門への公開絶縁状が新聞に出て話題になったとか。当時の女性は親の言いなりで結婚させられる人が多く、恋愛結婚というだけで話題になった。まして2回も離婚しながら堂々と生きていくなんてホントにすごい。恋に生きる女だったんだねえ。妻はしきりに感心していたが、肝心の短歌を読んでもよくわからないのが多かった。古文が弱いのはつらいよ〜。
柳原白蓮  「わが命惜まるるほどの幸を 初めて知らむ相許すとき」 うーん情熱だ。
 資料館を出て飯塚の駅前を少し歩く。ここは総理大臣のお膝元で、麻生飯塚病院も駅の近くにあった(麻生首相の「医師は社会常識がかなり欠落している人が多い」発言ってここから出てきたのかな?)。
あをぎりのくじら御膳  ここから後藤寺線に乗って田川後藤寺、さらに日田彦山線に乗り換えて田川伊田へ。田川の商店街を通り抜けて歩く。裏道に入ると寂れた感じになって、つぶれた銀行とか壊れかけた店の残骸が見える。東郷駅にもポスターが張ってある「あをぎり」という店で昼食。久しぶりに奮発して2100円のくじら御膳を注文する。かつては安かった鯨は炭坑町の常食だった。唐揚げ、ベーコン、炊き込みご飯、わさび漬けなど、念願の鯨料理に妻は喜んでいた。さらに歩いて田川市美術館へ。

山本作兵衛さんの絵  山本作兵衛さんは明治生まれの炭坑夫で、7才から50年以上炭坑で働き、66才になってから絵筆をとって炭坑の絵を描くようになった。特段うまい絵ではないのだが、迫力がある。250枚以上の絵を見るとクラクラした。1つ1つの絵に詳しい説明が書いてあるのだが、読みにくいのが惜しい。
 石炭とは植物が地中に埋まり、高温や高圧によって水素や酸素が追い出され炭素の割合が多くなり、「燃える石」になったものだ(化学的にはベンゼンやシクロヘキサンがメチレン基 −CH2− でつながったもので、成分としては石油と似ている)。日本では北海道と九州に産地が多く、特に飯塚・田川・直方など筑豊は日本の代表的な炭鉱地帯で、九州から大阪あたりまで燃料として石炭が送られた。戦後外国から安い石油を輸入するようになり日本の炭坑はほぼなくなったが、現在でも火力発電の発電量は、石油よりも輸入された石炭によるものの方が多い。
 そんな炭坑で働いていた人は、農村から仕事がなく流れてきた人、あるいは朝鮮から強制連行されてきた人、いわば「本当はやりたくない仕事」として石炭を掘っているのだと、今まで山本(先生)は思っていた。それは半分は正しいが、半分はまちがっているように思えた。
炭坑で働く人  一日中太陽を見ずに働く日々、お風呂に真っ黒なすすがたまるほど汚れる作業、いつ事故があって命を落とすかわからない、文字通り命がけの仕事場で必死で働いていた人には、絶望感とともに仕事への強い思いもあったはずだ。
 「わが身を人間と思えば死んでしまう。心にすきがでけるから。火のごとなっとらな……」
 「地の底は男もおなごも大人も子供もありゃせん、命がけじゃ。ぐずぐずしている者には、死ね! とどなって働いたからねえ」
 「死んだもんに習うて、ああしたら死ぬから死なんげな方法はなかろうかと、地の上じゃ喧嘩しとっても地の底に行きゃ、兄弟よりも親しいばい。教え合うて働く。そうしないと自分も死なんならん」

           (以上『奈落の神々 炭坑労働精神史』森崎和江著、平凡社 より抜粋)
 作兵衛さんの絵には、炭坑で石炭を掘る人々の姿、石炭を掘る数々の技術、その他炭坑夫の生活が延々と描かれていた(炭坑の穴を支える枠をつくる職人さんの描写は見事だった)。それはこの時代に生きた、おそらく2度と現れない人間の生きざまを、そこで亡くなった数千の人の思いまで込めて後世に残したかったのだろう。
 この人たちはたしかに、日本のエネルギー源を掘り出すことでこの国を支えていた。石炭がなければ電気もなく機関車も動かなかった(電気が使えない生活を想像できますか?)。
 しかし炭坑夫さんたちは"日本のため"とか"電気を使う人のため"に働いてはいたわけではないだろう。この人たちはきっと、ただ自分のために働いていたのだ。軍隊よりはるかに死ぬ確率の高い世界で、歴史に残ることも人がほめてくれることもなく、生活のために食っていくために働いていくこと、そうやって炭鉱で生きていくことの「誇り」と呼ぶよりもっと強いなにか、むき出しの人間の生きている証、きっとそれを作兵衛さんは一番かきたかったのだ。
 みんなのまわりのオトナたち(山本も)が言うかもしれない「世の中の役に立つために」「誰かの支えになるために」働く、そこに誇りを持つ、ということにも意味はあるだろう。でももしかしたら一番意味があるのは、なにかのためにとか理由をつけてではなくて、ただ運命の中で自分のために精一杯生きることなのかもしれない。本気で自分自身が納得できる生き方って、なにかに頼ることではないのかもしれない。子どものために働く、みんなと一緒にいることが支えになっている山本にはかなわないような強さが、ここにいた人たちにはあったのだろう。そんなことを思ったのははじめてだ。44才でも見つけられることってあるんやなあ。

 田川を出てから平成筑豊鉄道で直方へ行ったが、時間がなく直方市石炭記念館は見損なった。夕暮れの直方の駅前を歩き回っただけ。駅前だけでは町の本当の雰囲気はわからなかった。ずいぶん疲れたのでここでギブアップ、帰りはまた福北ゆたか線で熟睡しながら博多へ。お疲れ様でした。教えてくださった山本先生、ありがとうございました。

 みんなが筑豊に行く機会はあまりないかもしれませんが、いつか機会があったら山本作兵衛さんの絵を見てみてほしいです。もちろんみんなにはみんなの思い方・感じ方があっていいと思いますが、今の時代からは想像できない人の生きざまを感じるのは、きっとムダにはなりませんよ。(2008/12/8)

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