音楽とのつきあい


 山本は小2の時にエレクトーンを習い始めました。親に勧められたのではなく、近所の友だちとあまりうまくいかなくて、自分ひとりで何かやってみたかったように覚えています。最初はピアノをやりたかったのですが、申し込みに行ったらピアノ教室の方がいっぱいで、しかたなくエレクトーンのグループレッスンを受けることになりました。
 最初の2年は家に楽器がなく、鍵盤を書いた紙で練習していました。若い女の先生はやさしくて(いつもこんなのばっかり)仲間と一緒に弾くのも楽しくて、バスで遠い教室まで通うのが全く苦になりませんでした。試験で弾く曲のレコードを買ってもらって、英語の歌(Bobby Hebbの"Sunny")をすり切れるまで聞き、わけのわからん英語で歌って家族に笑われたこともあります(小3の時)。
 途中から代わった新しい先生は少し変わっていて、ピアノの練習をさせたり、好きな曲を選んで自分で楽譜を書いて弾いたり、曲をつくってコンクールに出したり……と、普通の先生ではやらないようなことをたくさんしました。最初はナンジャコリャと思いましたが、ピアノの練習をすることで指がよく動くようになったし、自分で曲を聴いて楽譜を書くことで音楽のつくりや編曲の勉強にもなりました。エレクトーンというのは両手両足を使ってひとりでメロディーも伴奏も弾けるので、自分で楽譜が書けるようになると、どんな曲でも自由に弾けるようになります。この先生はそのことをよくわかっていて、山本に「音楽を作り出す喜び」を教えてくれたのです。しんどくて落ち込んだときには、ヘッドホンをかけて好きな曲を3時間ぶっ続けで弾きました。父親が好きだった童謡を頼まれて弾いたこともあります。高3の文化祭ではクラスの演劇のテーマ曲を作って弾きました。学校が忙しく練習熱心ではありませんでしたが、高3の夏休みまで休まずにレッスンに通い続けました。自分の気持ちを込めて音楽にのめり込むのがどれだけ気持ちいいことか経験できたのは、本当にラッキーだったと思います。
 大学に入って一人暮らしを始め、エレクトーンにさわれなくなりました。大学の合唱団を見学してみたのですがもう1つしっくりこなくて、なにか音楽したいなあと思っていた時に新聞で『歌うボランティア募集』というのを見かけました。障害を持った人たちの書いた詩にメロディーをつけて歌う『わたぼうしコンサート』を開き、その収益で障害者の人が暮らせる施設を支援する……という活動です。福祉とか障害者問題のことは何も知らなかったのですが、音楽もできるし誰かの役に立つならいいかと思ってやってみることにしました。
 大学生や看護師、会社員など色々な人が集まったバンドでキーボードを弾きました。毎週水曜日の夕方奈良の施設に集まって練習してその後飲み会、朝まで雑魚寝してそこから学校や仕事に行き、土日は北海道から九州まで1年で40カ所以上のコンサートを回る、という大学そっちのけの生活をしました。途中からは編曲を任されてみんなの楽譜を書くようになりました。よく夜中に喫茶店で徹夜で楽譜を書いた記憶があります。仲間は家族同然でした。バンドの中で結婚した人もたくさんいて、実は山本もそうです。学生時代の縁は大切にするといいかもしれないよ。
 この運動にはお金をつくるだけではなくて、障害者の詩を公開することで差別や偏見を取り除いていこうという目的もありました。施設に通っていると実際に脳性マヒの人と話す機会がたくさんあります。体が不自由で介助なしには暮らせない、でもそれ以外のことは普通の人と何も変わらない、そういう人がどんな思いで生きているのか、どんな感情を持っているのか、お話ししたり詩を読んでも、山本にはその人たちの気持ちが本気で共感できるほどにはわかりませんでした。そんな自分がステージで弾いていていいのか、その人たちの思いを自分が伝えられるのか、そんなことを少しずつ悩み始めました。本気で差別と闘おうとするなら、そういう悩みを乗り越えて障害者とわかりあおうと努力すればよかったのに、山本にはそこまでの"やる気"がありませんでした。
 自分が納得できない、理解しきれない言葉を歌にしていくことがだんだん辛くなり、5年目の冬に「引退宣言」をしました。最後の大阪コンサートには全力投球しようと思って、2週間大学院もバイトも休んで奈良に泊まり込みで準備をしました。コンサートには名古屋の妹や友人も呼び、ステージが終わったときにはピアノのお姉さんと抱き合って泣きました。
 ……その時にはもう、自分の言葉で歌ってみたい、自分の音楽がやりたいという思いが大きくなっていたのです。コンサートから離れる以上、後に引けない気持ちでした。

 5年間関わった『わたぼうしコンサート』をやめ、大学院も2年でやめて、24才で下宿の近くにあった音楽の専門学校に入りました。プロになるとかではなくて、自分の歌をつくって、納得いく音楽をやってみたかったのです。
 親はずいぶんビックリしましたが、どうしてもやってみたいというとわかってくれました。学費だけ出してもらって、週5日塾のバイトをしながら学校に通いました。
 学校にはやたらとギターのうまい中学生、ライブハウスで歌いまくっているフリーターの兄ちゃん、クラシックピアノから転向してコマーシャルの音楽をつくっている人、家で内職をしながら延々とデモテープを作り続けているお姉さんなど、色々な人が通っていました。何度か頼まれて友人のバンドの伴奏をしましたが、練習の後仲間の音楽への思いを聞くのがとても楽しかったです。
 専門学校は普通の学校のように授業が詰まっているわけではなくて、1週間に4回授業があるだけ、あとはひたすら自分で練習でした。うまくなるかどうかはやる気次第です。発声と作曲とピアノのレッスンを受けましたが、作曲の授業は俳句を作ったりダンスをしたりひたすら色々なCDを聴いたり、どうもよくわかりませんでした。発声の先生はオペラをやっているお兄さんでしたが、日本でオペラで食っていくのは難しいんだ〜〜というグチをよく聞きました(その通り)。
 1年目はとにかくたくさん曲をつくろうと思って、30曲くらい書きました。今から思い出すと笑えるようなのもありますが、自分の言葉で歌を作ることに集中できたのはうれしかったです。キーボードで機械に伴奏を打ち込み、ひとりで作詞・作曲・編曲・演奏・歌と全部やりました。バンドをつくるのが面倒くさかったのですが、その分ライブハウスなどで歌う機会はなかなかありませんでした。学校の発表会で歌ったときは先生や仲間にずいぶんほめてもらったのですが、自分の歌が本当にいいのかどうかピンとこなかったのを覚えています。
 2年目になるとだんだん曲が書けなくなってきました。サボっていたのもありますが、バイトでやっていた塾の仕事の方が面白くなってきていました。音楽がなければ生きていけない!というほどは音楽にのめり込めませんでした。あまり上手でなくても(失礼)必死で練習したりライブに出て、本気でプロをめざしている友人がうらやましく思えたこともありました。
 ……もちろん簡単に音楽がお金になるわけではなく、ライブハウスで歌うことはできても、そこからプロになるのはよほどの実力+運がないと無理です。途中であきらめていく人もたくさんいました。本気で音楽で食っていきたいなら東京に行かないとダメだと言われて上京した友人もいます。20年たった今、音楽で食べていっている友人は(山本が知っている限りでは)2人だけです。
 2年目のある時、専門学校の先生から「サパークラブで弾いてみないか」と言われました。食事をする店でBGMを演奏するお仕事です。自分の歌をやるわけではないけど、これも一種の"プロ"です。一瞬やってみようかなという気持ちになりましたが、3日考えて断りました。塾のバイトをやめたくなかったのです。山本が子どもを教えることを本気で選ぼうと思い出したのは、これがきっかけです(サパークラブに行っていたら、多分今みんなと会うこともなかったはず)。
 3年目には塾で中3と高3を抱えて手一杯になり、音楽はそっちのけになりました。将来の見通しもなく行き詰まり、体をこわしたこともあって、塾も学校もやめて就職することになりました。学校を離れる3月に自分で区切りをつけようと思って「卒業コンサート」をしました。友人に伴奏を頼み、塾の生徒や大学の友人に集まってもらい、2時間ひとりで歌いきりました。
 音楽をしようと思った3年間は考えようによっては中途半端なものでしたが、他ではできない経験もたくさんしました。自分にとって音楽が何なのか、歌詞で伝えたかったことが何なのか、音楽と子どもを教えることのどちらが大事なのか、そんなことを考えながら過ごした時間でした。
 それからは塾の合格祝賀会や学校の文化祭で歌ったりするくらいで、人前で歌うことはあまりありません。福岡に引っ越してからは楽器もなかったのですが、昨年電子ピアノを買い、今年の春には久しぶりに新曲をつくりました。7月に宮路岳神社のイベントで20分だけ歌うことになり、少しずつ声を作り直しています(よかったら来てください)。
 山本にとって音楽は"気持ちそのもの"です。うまいヘタではなく、ヒトの持っている思いを相手に伝えることです。今まで生徒や友だちのために、手紙を書くように歌を作ってきました。そしてステージの上でみんなの気持ちが1つになったときの鳥肌が立つような感覚は、他では絶対に味わえません。みんなにもそんな経験をしてほしいし、いつかみんなのためにも歌を作ってあげられたらいいなとも思っています。
 ※歌詞はホームページにのせています(2009/5/28)


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