スポーツは誰のために


 サッカーのワールドカップが盛り上がっています。日本チームは下馬評がよくなかった割には善戦で、決勝トーナメントに行けるかどうかの瀬戸際です。みんなの中にも応援している人がいるでしょう。
 ところでテレビではよく「ニッポンがんばれ!」などと言っていますが、あのチーム本当に「日本の代表」なのでしょうか。
 私たちが選手を選挙で選んだわけではありません。同じ国の人だから応援するという人はたしかに多いでしょうが、だからといって日本人すべての代表として試合をしているわけではないし、日本人が他の国の応援をしていけないわけでもありません。
 サッカーは国によってもプレースタイルが異なり、どういう戦い方をするかは選手の個性や監督の方針で変わります。どんなチームが見ていて楽しいか、応援したくなるかは、見ている人によって様々でしょう。自分の国しか応援できないというのは、考えようによっては不自由です。サッカーに限らず、どこを応援するか、どこのファンになるかを自分で考えて決めるというのも、スポーツを楽しむ大きな要素だと思います。
 今から40年前、円谷幸吉というマラソン選手が自殺して大きなニュースになりました。彼は亡くなる4年前、東京オリンピックのマラソンで銅メダルを取って"時の人"になり、次のオリンピックこそ金メダルを!と期待されていたのですが、腰などのケガが治らず、心の支えになっていた婚約者とも「オリンピックまではつきあい禁止」という監督の命令で別れさせられ、重圧に負けてしまったのです。後で公開された遺書の「父上様、母上様、幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません。何卒お許し下さい」というくだりを読むと、悲しくて泣けてきます。
 昔はスポーツはする人のためのものではなく、郷土や国の誇りのためにするものだ、という考え方が強かったのです。今でもそういう考え方は残っていて、高校の野球部が甲子園に出ると学校全体で応援に行かされたり、試合で惨敗すると「国のみなさんに申し訳ない」と言ったり、オリンピックのメダルが少ないと国会で問題になったりします。テレビで日本選手の応援ばかりするのも、スタンドで大きな国旗を掲げて応援するのも、同じ国の人だからというだけではなくて、選手たちが「日本の誇り」をかけて戦っている、という意識があるからでしょう。
 地元(母校)の選手を応援するのはもちろん自由だし、選手が応援に応えようとしてがんばるのも素敵なことです。でも逆に「国(母校)のためにするのが当たり前」という考え方を選手に押しつけることには、賛成できません。スポーツは突きつめれば、国や学校ではなくする人自身のものだと思うからです。
 厳しい練習をするのも、チームワークをつくっていくのも、試合本番で思い切り楽しむためのものです。勝ち負けはもちろんありますが、負けたからといってスポーツの楽しさや意味がなくなることはありません。思い切り打ち込んだことのある人にはそれがわかるはずです。
 山本は中学でも高校でも強いクラブの万年補欠で、試合にほとんど出たことがないし、練習が楽しいと思ったこともありませんでした。スポーツが楽しいと思えたのはオトナになってからです。でも子どものうちに一番必要なのは、勝ち負けにこだわることや修業のような練習ではなく、体を動かすことの楽しさ、試合をすることの面白さをたくさん味わうことだと思います。その人の一生の中でスポーツが大きな財産になるようにするには、上からの命令で厳しい練習をさせるよりも、練習することでスポーツがもっともっと面白く楽しくなることをわからせることです。
 高校の運動部の顧問の先生が、そういうことをわかってくれていたらと思います。みんながこのことについてどう思うかも、いつか聞いてみたいです。運動部の人、練習お疲れさま。体だけはこわさないでね。(2010/6/23)


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