岩手に行ってきました


 3月の終わりに、岩手を旅行しました。
 去年の地震で被害を受けた場所に、ボランティアとしてお手伝いに行きたいとずっと思っていました。春休みになって時間がとれたので、「早春けっぱれ東北・ボランティアライナー」というツアーに参加しました(けっぱれとは東北弁で『がんばれ』)。
 福岡から東京まで夜行バスで14時間。東京でボランティアツアー用の夜行バスに乗ってさらに10時間。北海道から鹿児島まで日本中から40人が集まりました。バスで隣に座ったおじさんはサッカー場や野球場などのオーロラビジョンの営業(販売)をしていて、何度も東北にボランティアに行っておられる人で、初めての山本に色々教えてくださいました。ボランティアといってもがれきの片づけから子どもと一緒に遊んだり、土地や主催者によって雰囲気も全然違うこと。このツアーはガイドさんがいいので特に人気があって、参加者が新年会までしていること。……営業の人の話はさすがに面白い。山本も見習わなきゃ。でも眠い夜中に延々としゃべられるのはちょっと参ったかも。
 花巻のホテルに着いてからすぐにまた2時間、バスに揺られて岩手県大槌(おおつち)町へ。被災地から遠い花巻で泊まったのは、被災地では工事など作業をしている人がたくさん泊まっていて、ボランティアを受け入れてくれる宿泊施設があまりないからということでした。
 内陸の花巻は地震の被害がほとんどなく、まだ雪が残り空気がおいしい山奥の観光地だったのですが、バスが海に近づくにつれて風景が変わってきました。川沿いの道に沿って走っていくと、少しずつ津波で壊れた家の跡が増えていき、海に近いところに着くと、草もほとんど生えていない荒れ地が続いていました。JR大槌駅も津波で根こそぎ流され、ちぎれた線路が見えるだけ。復旧の見込みはまだ立っていません。
 途中にプレハブの商店街がありました。店がほとんど流されてしまったので、こうやって集まって営業しています。飲み屋さんとか薬屋さんとか喫茶店とかDVDレンタルの店とかが1ヶ所に集まっているのは何となくヘンな感じ。集会所の前でボランティアのジャズバンドが演奏していて、大勢の人が聞きに来ていました。
 大槌町は地震と火災・津波で大きな被害を受け、人口の1割以上が亡くなったり行方不明になり、町長も亡くなりました。大槌川の近くにある中学校はかなり海から遠かったのですが、1階が吹き抜けのようにがらんどうになっていて、建物の中を津波が通り抜けていったのがわかりました。生徒や先生はどうしていたんだろう。上にいて無事だったとしても、自分のいるすぐ下を津波が突き抜けていったら、平気でいられただろうか。地震の後PTSD(心的外傷後ストレス障害、ショックが心の中に残って気持ちが不安定になったり体に症状が出ることもある)になった人がたくさんいますが、こういう場所にいたらどんな気持ちを味わうのか山本には想像できません。みんなはどうですか。
 今回のお手伝いは、大槌側の河川敷に菜の花を植えること。この川は津波の直後はがれきでいっぱいで、川の水も見えないくらいだったのですが、ボランティアを含めて大勢が少しずつがれきを片づけ、今は普通の川になっています。河川敷には「ありがとう」「まけない心」という文字の形にお花が植えてありました。阪神大震災のとき、神戸の歩道橋に「助けてくれたみなさん、ありがとう」という横断幕がかかっていたのを思い出しました。
 河川敷を菜の花でいっぱいにして、住んでいる人やここを訪れる人に元気になってもらおうと考えたのは、地元の金山さん。がれきで埋め尽くされた川を見て、「大槌には何もなくなっちまった。気持ちだけでも消えないよう、ポツンとでもいいから明りをともしてえ」と考えたそうです。ニコニコしながらテキパキと指示を出すこの人に助けてもらいながら、小雨の中まずは雑草や小さいがれきの片づけ。片づいているように見えても、木ぎれや建材のかけらがたくさん落ちていました。種をまく場所を軽く耕してから、みんなで一列に並んで種をまきました。2時間半ほどの作業でしたが、久しぶりの畑仕事で腰が……年だって思いたくないよ――。
 この日にまいた種は無事に芽を出して、5月には一面の菜の花畑になったそうです。ブログで一面の黄色になった河川敷の写真を見て、自分のしたことが他の人にどんなふうに役に立っているのかなって考えました。
 作業後は海の近くの食堂でお昼ごはん。「おらが大槌 復興食堂」というテント張りの食堂で、サケとイクラの親子丼(これも親子丼?)をいただきました。チョコボ(ちょこっとボランティア)というかわいいチョコレートを買いました。復興のために色々工夫された商品も売っていました。
 食事の後で、津波で婚約者を亡くされたという男性のお話を聞きました。大槌町で生まれ育ったこの人も彼女も、高校を卒業してからしばらくこの町を離れていましたが、やっぱりここで働きたいと戻ってきたそうです。地震が起こった時には彼は隣町にいて無事だったのだけど、歩いて大槌まで帰ってくる途中ですれ違う人に大槌の様子を聞いてみても、みんな黙って首を振るだけでした。町役場に勤めていた彼女は、最後まで町の人のために働いて死んでいったそうです。
 「彼女はこの町を元気にするために帰ってきました。今度はボクがその仕事をしなきゃいけないって思ってます」
 この人がどうしてこんなに明るく話せるのか、山本は不思議でした。愛する人を亡くして、生まれ育った場所がメチャメチャになって、この町の将来がどうなるかも全くわからないのに、どうしてこんなに明るくなれるんだろう。
 人間はどんなに辛いことがあっても、気持ちの持ち方次第で立ち直ることができるって、本で読んだこともあるし、実際にこういう人と会って話したこともあるけれど、……この人が笑顔になれるまでに、どれだけのことがあったのだろう。どうやったら元気になれるんだろう。それがわかったら、元気のない子どもをもっともっと励ますこともできるのに。そう思いながらお話を聞いていました。ボランティアに行くと逆に元気をもらえるっていうけど、それはこういう逆境に負けない人を見て、お手伝いに来た人の方が勇気をもらえるっていうことなのかもしれません。
 その後バスに乗り、地元の高3の女の子のガイドで町を案内してもらいました。高台に上がるとこわれた建物が点々と立っているだけの廃墟のような町が見えましたが、そこに住んでいた彼女はニコニコしてみんなの質問に答えていました。ブラスバンドの部長をしていたという彼女は半年以上避難所で暮らしていて、高校を卒業したら千葉の看護学校に行くとのこと。彼女も色々辛い思いをしてきたはずなのに、やっぱり明るい。こんなに人間は強いものなのか、未来を信じていれば笑顔を取り戻せるものなのかと思うと、彼女にお礼を言いたい気持ちになりました。

 大槌町でのボランティア活動は夕方に終わり、花巻のホテルにバスで帰ってきました。温泉で汗を流した後、夕食をいただきながらボランティアのみんなでおしゃべり。ボランティアに来たとはとても思えないくらいのごちそうをいただきました。久しぶりにお酒を飲みましたが(普段はほとんど飲まない)、岩手の地酒もおいしかったです。
 福祉関係のお仕事に就きたいと言う大学生の女の子は「大学でボランティアサークルに入っているけど、こういう場所に来ると全然違う気持ちになります」って言っていました。
 高3の男の子は、最初はまわりが年上だらけで緊張していたようすでしたが、だんだん慣れてきて「来てよかったです! 役に立ててうれしい。がんばります!」って言って、力仕事を先頭に立ってがんばっていました。若いっていいなあ。
 逆に定年でお仕事を辞められておうちでゆっくりされているというおじさんは、「若い人とこうやってお話しできるのがうれしいです」っておっしゃっていました。そういうのもあるかな。
 福岡からお父さんと一緒に来た小6の男の子は3月11日(地震の日)生まれで、どうしても被災地に来たくてお父さんにねだってつれてきてもらったそうです。まわりがおとなばかりで緊張していたのか、ずっとお父さんにくっついていてあまり話しませんでしたが、畑仕事もがんばっていました。ボランティア仲間でも人気者で、みんなから声をかけてもらっていました。この子にとってどんな思い出になったのかな。
 福島県の南相馬市に実家があるという20代の若いお兄さんは、建築関係の若社長で貫禄も体力も体格も十分。いつもニコニコしてとても気持ちのいい人でしたが、地元の話になると少し沈んだ感じになりました。
 「岩手はいいですね。南相馬は(放射能のため)避難区域になっているので、なかなか復興が進みません。若い人も減ってしまいました。ボクは今は少し離れたところに住んでいるんですけど、南相馬に住んでいる両親は生活が不便なので、時々買いものをして親のところに運んでいます。両親はもう年だし、死ぬまで故郷で暮らしたいって言っていますが……」
 この人も大変なんじゃないかな、御両親が病気になったりしたらどうされるんだろう、とか思いながらお話を聞いていました。どうして辛い思いをしている人の方が、山本より明るくふるまえるんだろう。無理してる感じもないし。強いってこういうことかな。
 ボランティアをするのは、こういう仲間との交流も大きいような気がします。山本は学生時代に、障がい者の書いた詩に曲をつけて、チャリティーコンサートをして施設運営のお金をつくるというボランティアをしていました。山本はバンドのキーボードで、色々な大学の学生や看護師、会社員などと一緒に毎週集まって、全国あちこちにコンサートに行きました。本当に楽しかったです(今の妻もそこで知り合った人です)。障がいを持った人とどう接したらいいか、障がい者差別についてどう考えどう行動するか、悩むことも多かったけれど、高校までは思いもしなかった経験をたくさんできて、山本の生き方はそこで大きく変わりました。ボランティアは本当に、人のためじゃなくて自分のためだと思いますよ。

 2日目またバスに乗って、今度は陸前高田市へ。2時間ほどバスに揺られている間、昨日から同行してくれているとっても元気なガイドさん(30代、男性)のお話を聞きました。
 宮古市(大槌町の近く)で暮らしていたガイドさんは、地震と津波で街がメチャクチャになりました。家は無事だったけど会社は仕事がなくなったのでクビ。家族が無事だったのは何よりでしたが、しばらくは何もする気が起きなくてボーッとしていたそうです。
 「……そんなとき、宮古の浜にボランティアの人たちが来始めたんです。毎日何十人も来て、少しずつがれきを片づけていました。一人ではどうしようもない大きながれきも、力を合わせれば動かせる。車を持ってくる人、炊き出しをする人、色んな人たちができることをやって、浜辺はみるみるうちにきれいになっていきました。
 ボクは恥ずかしくなりました。地元の人たちが何もしないでどうするんだって。自分の町を放っておいたことを、本当に恥ずかしく思いました。ボランティアの人たちが、ボクに勇気をくれたんです。
 ボクはボランティアのお手伝いをしようと思いました。今のバス会社に雇ってもらって、ガイドの資格をとりました。こうして東京と岩手を往復しながら、少しでもここに来てくれる人たちのお手伝いができたらと思って。今こうやって仕事ができているのが、とてもうれしいです。
 だからあなたたちに言いたい。ここに来てくださってありがとうって。たいしたことができないとか思わないでください。ここに来てくれること、ここでつながってくれることが、地元の人たちにとって、何よりのプレゼントなんです。」
みんなシーンとしてました(寝てた人もいたかな?)。
 ガイドさんはいつもテキパキして元気がよくて、みんなの相談にのったりアドバイスしたり、普通の観光バスのガイドさんとは全然違う仕事ぶりの人でした。この人がどれだけの思いを背負っているのか、お話だけでは想像しきれないけれど、この人もやっぱり故郷を愛していて、故郷のために自分のできることをしようとしてるんだなって思いました。
 陸前高田市も大槌町と同じように市街地の7割が壊滅、市庁舎もすべて全壊、1700人が亡くなり、市内に5つあった駅のうち4つまでは壊れてしまいました。バスが着いたのは町の中心部でしたが、地震から1年たっているのに、田んぼのように何もない土地が広がっていました。

 陸前高田市でのボランティア活動は、花壇の手入れ。なんだかお花づいてるけど、生物教師としてはよかったかも?
 街の中心部から少し小高い丘に登ったところに、広い花壇がありました。1日目の金山さんと同じように、地震や津波の被害でうちひしがれている人に元気になってもらいたいという思いを込めて、吉田さんという人が花壇をつくっていました。
 元々は吉田さんたちの家が建っていた場所が、津波でメチャメチャになってがれきだらけになっていたのを、地元の人たちやボランティアが少しずつ片づけて、なかなか立派な花壇になっていました。1円にもならない作業にたくさんの人が関わって、荒れ地がここまで変わったと思うと、不思議な気持ちになりました。
 吸い込まれるくらいきれいな青空の下、グループに分かれて作業開始。山本は前号で書いた小6の男の子と一緒に、花壇の隣にあるビニールハウスの片づけのお手伝いをしました。花壇づくりに必要なものが色々置いてあるビニールハウスは、雨漏りもするし、いらないものや使えなくなったものもたまっていました。花壇の作業をずっと手伝っておられる近所のおばさんの「あれをこっちに持ってきて!」「ここにロープを張ってあっちで止めて!」という指示に振り回されながら? 雨漏りを防ぐロープやテープを張ったり、釘や板や園芸用品の整理をしました。昔会社で働いていたときに覚えたロープの結び方(もやい結び)を覚えていたらすごく役に立ったのだけど、忘れてしまって……情けない。どんなことでも覚えていれば役に立つ時ってあるものです。ホントだよ。
 小6の男の子はなかなか勝手がわからず、おばさんに何度も聞いたり、どうしていいかわからなくて、ちょっと悲しそうな顔をして立っているときもありました。なるべく彼にできそうな仕事を見つけて「ここをやってね」「そこを持っててね」って言うんだけど、山本も初めてなのでうまく言えないときがありました。彼にとってはちょっぴり辛かったかもしれないね。
 2時間ほど働いて、花壇を見ながらお弁当をいただき、海岸まで歩いてみました。日差しが海に反射して、うっとりするくらいきれいでした。この海から津波がやってきて、街をメチャメチャにしたことを、地元の人たちはどう思っているのかな。どんな気持ちなのかな。どれだけ被災者のお話を聞いても、想像しきれません。
 お昼休みの後で吉田さんのお話をうかがいました。津波が押し寄せてきて命からがら高台まで逃げたこと、下の住宅地がメチャクチャになっていくのを呆然として見ていたこと、知り合いが大勢亡くなったときの気持ち…… 他の人と同じように、吉田さんはすざまじい話をニコニコしながら淡々と話していました。本当に強い人ってこうなんだね。
 「何かあったら、とにかく一生懸命に逃げること。命が一番大事です」
 1日目に大槌町で聞いた話を思い出しました。大槌小学校は地震や津波で大きな被害を受けましたが、子どもたちはほとんど助かったそうです。それは、普段から小学校のみんなが
 「想定にとらわれないこと」「最善を尽くすこと」
 「自らが避難者になること(人やものを助ける前に、まず自分を助けること)」
 と教えられていたからだと聞きました。でもおとなたちが口先だけでそう言っても、いざというとき子どもが真剣に行動するのは難しかったでしょう。多くの子どもが助かったのは、地震や津波の恐ろしさを知っているおとなたちが真剣に子どものことを考え、避難訓練でも率先して子どもの見本になるように行動し、命を守ることの大切さを普段から本気で教えてきたからだと思います。なかなかできることじゃないよね。
 それはきっとどんな教師にも通じることです。口先だけで適当に教えても、きっとみんなの頭にも心にも残らない。教える中身の大切さ、面白さを教師がわかっていて、本気でそれを伝えようとしたときだけ、みんなの心に響くような授業ができるって思いました。山本もがんばらないとね。
 吉田さんの花壇は今はお花がたくさん咲いて、見る人の心を癒してくれています。特にしんどい思いをしている人には、お花を見ることで心を慰められたり、勇気を出せたりすることもあるでしょう。がれきの片づけや農作業のお手伝いももちろん大切だけど、こういう作業にも意味はあるって信じたいです。
 吉田さんにお別れを言って花壇を出た頃には、雨が降り始めました。バスに乗って「奇跡の一本松」へ。海岸沿いの松林の中でたった1本だけ生き残り、地元の人に希望を与えてきたマツの木です。このマツの木も根が海水で腐っていて、もう枯れかかっているのですが、倒れてしまう前に防腐処理をしてモニュメントにする話があり、全国から募金を集めているそうです。わらを巻かれてひょろひょろと伸びているマツは痛々しい感じでしたが、たくさんの人がお参りしていて、花束が置かれていました。モニュメント代3000万円集まるといいな。
 マツの近くにはがれきが集められ、いくつかがれきの小山ができていました。地震から1年以上たつのに、まだ腐ったようなにおいがきつくて近寄れません。とてもこれの近くには住めないでしょう。この間、北九州市が被災地のがれき受け入れを決めました。放射能の危険など色々議論もあるけど、また人が住める街にするために、どんな形ででもとにかく早くがれきを何とかしないといけないなと思いました。

 夕方花巻のホテルに帰る頃には、雨は雪に変わっていました。食事の後バスに乗って東京へ。
 とうとう岩手ともお別れです。2日間だけのボランティアでたいした仕事もできなくて、なんだか申し訳ないなという気もしていましたが、最後の食事の席でガイドさんは
 「みなさんがこうやって来てくれただけで、地元の人たちはうれしいんです。本当です。
 みなさん、ぜひまた岩手に来てください。人のつながりを忘れないでください。それが私たちにとって、何よりのプレゼントなんです」
と言っていました。
 2日目にあんまり働けなかった小6の男の子も、ここに来ただけで十分みんなに勇気を与えてくれている。ひとりひとりはたいしたことができなくても、被災地の人とつながることで生きる勇気を与えられる。
 ガイドさんはそのことを知っているから、ひたすら働くだけではなくて、色々な人の話を聞いたり、被災地をあちこち回るスケジュールを組んで、ここに暮らしている人たちがどんな思いでいるか、被害にあっていない人たちができることは何か、ボランティアの人たちに考える機会を与えてくれたのだと思います。
 ガイドさんとお別れするとき、彼は山本の手を思いきり強く握って「色々なやり方がありますからね」って言っていました。……山本のやり方。それはみんなに岩手での経験を伝えて、被災地がどんなふうになっているか、そこにいる人たちがどんな思いをしているかを考えてもらうことです。
 みんなのうち1人でも2人でも、あの地震や津波の被害にあった人たちのことを考えてくれたら、そして人と人とのつながりが悲しみを乗り越える力になることをわかってくれたら(それは今のみんな自身にも言えることです)山本はうれしいし、ガイドさんもきっと喜んでくれるだろうなって思います。もしその気があるなら、いつかみんなも被災地に行って、少しでも助けあうことのうれしさ、大切さを感じて成長する機会を学んでほしいです。そう思っています。(2012/6/7,6/12,6/27)


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