山本自身のこと−−−高2から高3まで−−−

 山本は高2の2月までバレ−ボ−ル部をやっていました。練習の多いしんどいクラブの万年補欠でしたが、友だちの仲はとても良かったです。その中の2人とは将来のことも話し合ったりしていました。
 原子力の研究をしたいと言っていたO君→一浪してから工学部の大学院(修士)を出て、現在JR西日本の幹部候補生(リニアモ−タ−カ−でも作るのか?)
 コンピュ−タ−おたくでプログラマ−になりたかったH君→同じく工学部の大学院(修士)を出て、沖電気の子会社でSE(システムエンジニア)をしている。
 O君はその頃とはかなり違う道を、H君はだいたい夢をかなえたわけです。

 さて山本はというと、公害問題の研究をしたいと思っていました。山本は四日市生まれで喘息持ちです。公害病患者ではありませんが、小さいときに公害についての本を読んだりしたこともあって、水俣病やイタイイタイ病をなくすために何かをしたい、壊されていく自然を守りたい、と漠然と考えていました。高2の3月に、高校の理科(生物)の教師にそのことを話すと
 「それなら川那部先生の本を読んでみたらどうや」
 「カワナベ先生ってどんな人ですか?」
 「日本で初めて公害裁判で被害者のために証言した大学教授だ」
 ふ−ん、と思いながら川那部先生の本を借りて家に帰って読んでみた。公害のことはあまりのっていない本でしたが、論理的でとても面白い。山本は当時から理屈っぽい人間でしたから、この先生にとてもひかれてしまいました。
 京大の理学部(動物学科)を受けようと思ったのは、母親とずっと仲が悪くてどうしても下宿したかったのと、理学部の中では2次試験の理科が1つでよかったのと、その川那部先生の講義を聞きたかったからです。受けると決めたのは高3の5月だったと思います。それからは学校の授業はほとんど聞かずひたすら寝ていました。

 共通1次(今のセンタ−試験)=国語・数学・英語・社会(日本史+政経)・理科(物理+化学)
 2次=国語(現国のみ)・数学・英語・理科(物理)
 クラブでの無理がたたり左ヒザと腰が悪く、医者通いしながらの受験生でした。それでも9月の学園祭ではクラスの演劇で演出を受け持ち夏休みをかなりつぶし(ラブシ−ンをするかどうかで担任ともめた)彼女とも何となく会っていました。「わき目も振らずひたすら勉強」ではない方が精神的には安定するように思います。

 高校の後半は不登校気味で高3で40日くらい休みました。学校内での最後の実力テストを休んでしまい、結局自分の偏差値もわからないまま本命1本で勝負することになりました。
 親は「お金がないから私立はダメ。落ちたら予備校に行かず自宅浪人しなさい」
 担任は「まあ最近は一浪をヒトナミと読むくらいだからねェ」
と何だか頼りない感じでしたが、だいたい大人はこんなものと思っていたので別に気にはしませんでした。受かりそうな気はしてたけど、やはり同じ大学を受ける人が多かったのが何よりの励みになりました。「あいつでも受けるんだから何とかなるはずだ」
 試験の2日目が大雪で、腰が引きつるように痛みダメかと思いましたが、何とか滑り込めました。後から聞いたら合格最低点+50点だったそうです。

 大学に入ってからは色々なことがありましたが・・・高校時代に思っていたような進路には結局行きませんでした。志なんて変わるものです。一つだけ思うのは、大学時代に色々な経験をさせてもらえたことが、その後の歩みに決定的な影響を与えているということです。大学に入って遊ぶのも、専門の勉強に打ち込むのもいいかもしれませんが、学生時代にしかできないことはたくさんあります。この1年は灰色になってしまうかもしれないけど、次の学校では授業だけでない本当の勉強をたくさんして欲しいと思います。(1995/3 高2文集より)


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