先輩になる前に〜上下関係について〜

 今週は中学入試があります。金曜日には合格発表があって、あなたたちの後輩が決まります。
 学級日誌に「後輩が入ってきて欲しい」と書いていた人もいました。年下の人が入ってくるのは、何となく自分が偉くなったような気もしてうれしいものですね。
 昨年の5月、運動部と文化部の人たちが講堂に集まって、校長先生や指導部の先生からの話を聞いたことを覚えていますか。こんな話でした。

 「一部のクラブで、好ましくない上下関係がある。食堂で食事をしている途中でも、先輩が通るとき礼をしたり、廊下で先輩と会うと直立不動になったり、部活が終わっても先輩が帰るのをずっと待たされたりしている。これはおかしい。礼儀に対する考え方が誤っている。このような上下関係しか持てないようなクラブは、この学校にはいらない。気をつけて欲しい。」

 この話の後、"好ましくない上下関係"はあまり目立たなくなってきたそうです。みんなはどう思いますか。

 人間同士がつきあったり、いっしょに何かをするときに、相手の見方には2通りあります。「立場が違っても、みんな対等で平等な人間だ」という考え方と「人間には上下の区別があって、命令する側とされる側があって当然だ」という考え方です。
 昔から「上下の区別」を大切にする考え方はたくさんありました。
 「王様は偉くて奴隷はみにくい」 「男は主人で女は男に従うもの」 「社長は偉くてヒラ社員はダメ」 「いい大学を出た人は偉い人」 「子どもは親の言うことを聞くものだ」 「先輩の言うことは聞いて当然だ」 「天皇陛下は偉い人」 etc・・・
 この考え方は"身分の違い"が世の中に生まれてきたときから、ずっと残ってきたものです。身分の違いが最もはっきりしているのは、武士の社会や軍隊の世界です。サラリ−マンのヒラ社員→係長→課長→・・・→社長というのも、一種の身分制度のようなものです。
 身分の違いは、例えば戦争に勝つという「1つの目的」に向かうときには得なときもあります。が、1人1人のいいところを活かし、お互いが心から助け合い、1人1人を大切にするにはジャマなものです。

 山本は大学の1年生の時バレ−ボ−ル部に半年だけ入っていましたが、そこの雰囲気はまさに軍隊式でした。先輩の前ではいつも直立不動、先輩から言われたことは全部復唱する(繰り返す)、コ−トの準備と片付けは全部1年生がする、など・・・時々卒業生が来て「我がバレ−部が○○大に負けるなんて恥だ」とか「先輩からの伝統を汚すな」とか言っていばっていました。中学や高校のクラブでも「顧問の命令が絶対」とか「先輩と後輩の間のけじめがはっきりしている」と言われるクラブはたくさんあります。

 先輩として後輩に「命令する(言い方がやさしくても意味は同じ)」のは、ちょっと考えると気持ちがいいし、後輩として命令されたりついていくことも、慣れてくると何となく偉くなったような気がするものです。山本も昔はそうでした。でも後輩に考える余地を与えずに命令するのは、後輩をバカにしていることです。先輩の言うことに無条件に従うのは、自分が考えない分サボって、自分をバカにしていることになります。

 必要なのは「話合いによる役割分担」であって「先輩と後輩の上下関係」ではありません。上級生は上級生だからできることを、下級生も自分でできることをお互いに考え、納得した上で役割分担をするのが「上下関係のないクラブ」だと思います。そういう意味から見ると、今のこの学校で「上下関係のないクラブ」などほとんどないと言わざるを得ません。好ましくない上下関係ではなく、上下関係自体が好ましくないのです。自分や他人のいいところを見つけ伸ばしていくような本当のクラブ活動はできないのでしょうか。

 今の世の中は、建前では上下関係のないことになっているのに、実際には色々な形で「昔あった上下関係の名残」があります。今の大人たちも知らず知らずのうちに「上下関係」を身につけてしまっている人が多いのです。山本も(いいとは思わないが)そうです。学校の中ではそれは「教師は生徒よりも偉いのだから、教師の言うことに従いなさい」という管理主義の形でよく現れます。
 でも次の世代であるあなたたちが、同じように古くさい上下関係を身につけて欲しいとは思いません。4月に新しい中1が入ってきたときに、もう1度このことについて考えてみて下さい。(クラブに入っていない人も)

 本当に上下関係のない集団にするためには、次の力が必要です。

 ※自分のいいところ・他人のいいところがわかるように努力すること。
 ※年齢に関係なく同じ仲間として、お互いにいいところを持った人間として尊敬できること。
 ※自分の意見をわかりやすく言えること。人の意見をちゃんと聞けること。
 難しいことですが、クラブやクラスの中でこのような力を身につけて言ってほしいと思います。
 「子どもは未来を生きる人間であるのだから」(1995/2/27)

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