小学生の頃


 山本が小学生だったのはもう20年以上前のことです。みんなくらいの子どもがいても不思議でないと思うと、フシギな気がします。
 小学校の1〜2年のときは、名古屋の古い下町に住んでいました。車が危ないので自転車に乗れるのが夕方の4時から5時までという規則があって、その時間になると豆腐屋さんのパープーというラッパを聞きながら、友だちと小さな公園を走り回っていました。ケンカをすると絶対負けて、家で泣いた覚えもあります。喘息持ちでよく学校を休み、寝ながらラジオを聞いていました。よく流れていたエルトン・ジョンの Your song が好きでした(これは名曲です。ぜひ1度聞いてください)。
 2年生の終わり頃に、名古屋の端のいなかに引っ越しました。今度は見渡す限り田んぼが続き、原っぱや工事用の土砂が積んである空き地でよく遊びました(今はそんな場所ないねえ)。捨ててあった畳とか建築材を集めて「基地」をつくっていたら、となりの学校の子にイチャモンをつけられてケンカになり、結局こわされてしまったことを覚えています。運動神経がまるでなく、野球をすれば追いかけていくうちに背中にボールが当たったり、ボールにバットがあたらずボールの代わりにバットが飛んでいく……という具合でした。そんなふうでも時間と場所はあったのでよく遊びました。自転車で思い切り遠くへ行くのも好きでした。友だち宛の年賀状を自分で配ったりしました。
 アパートの11階に住んでいたのですが、母親の命令で、体を強くするために毎朝1階まで3往復階段を走らされました。そのときに階段を走るコツを覚え、今でも階段の上り下りだけはものすごく速いです(苦労したかいがあったかな?)。喘息を治すためにニンニクの薬を飲んだり、スイミングに行かされたりしました。しごかれて3ヶ月で何とか25m泳げるようになったのですが、最後の日に母親が見に来ると緊張して泳げず、悲しい思いをしました。
 4年生になると水泳部に入らされました。顧問の先生が大変やさしい人で、スイミングで苦労したのがウソのようにうまくなり、1ヶ月で200m泳げるようになりました。この頃になると喘息もほとんど治り、学校もあまり休まなくなりました。6年のときはなんと皆勤賞をもらいました。
 鼓笛隊にも入りました。4年生のときは笛、5・6年のときは大太鼓をしました。体が小さかったのでおなかに大太鼓をしょうと前が見えず、運動会のパレードでは何度も転びそうになりましたが、先輩や友だちと一緒に練習して本番が無事に終わると「やったー」という気持ちになりました。
 当時は中学入試を受ける人はクラスに1人くらいいて、塾に行く人もほとんどいませんでした。学校の勉強は今より少し難しかったと思いますが、そんなにガリガリ家で勉強していた覚えもありません。今のみんなを見ていると、昔よりやることが多く余裕がなさそうで大変だなぁと思います。塾で勉強するのはいいことなのかもしれませんが、その分自由になる時間が少なくなるし、好きなように遊べる場所も減っているのがかわいそうな気もします。本当は塾の中でも「自分で考えて遊ぶ」「みんなで何かをする」ような時間があってもいいのに……と思いますが、これは学校の仕事かな。でもとにかく小学生には「よく学びよく遊べ」でいてほしいですね。将来のためにもね。(1998/10/20)


 とてもありがたいです

   中2の授業で、前の授業で説明したところを
   まちがえてもう1度説明しようとしたら、
   「そこは先週やりました」と言ってくれた人がいました。
   最近みんな遠慮がちであまり意見など言ってくれないので、
   この一言はうれしかったです。ありがとうね。
   ……何でも遠慮せずどんどん言ってくれたらと思います。
 


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