先生の思い出

 かたい話が続いたので、山本の昔の話をします。

 小学校の時の担任の先生はけっこう印象に残っています。小3の時の担任は近藤先生という男の人で、みんなは「ウドンコ先生」などと言っていました(わかる?)。 "努力"という言葉が好きで、何かというと「一生懸命やれば、それでいい」というのが口癖でした。自分の身長と同じ高さになるまで練習した習字の紙を積み上げた、という話を聞きました(ホントかな……)。今の山本もみんなに「努力してほしい」などとよく言いますが、この先生の影響があるように思います。
 4年の時の担任は厳しい女の先生でした。体操服を忘れた生徒は、女の子でも下着で体育の授業を受けさせられました(よく親が文句を言わなかったなあ)。山本もよくしかられましたが、不思議とあんまり憎めない先生でした。
 小学校の時は水泳部でしたが、クラブの顧問の先生がとてもいい人たちでした。最初に教えてもらった女の先生はとてもやさしい人で、おかげで? アッという間に50m泳げるようになりました。6年のときの顧問の先生は、夏休みの間ほとんど休まず、先生のお母さんが亡くなったときも練習に来てくれました。厳しい人だったけど、今から考えるとホントにすごい先生でした。

 中1のときの理科の先生は、とてもやさしくてきれいな女の人でした。山本は理科係になって、実験の準備や後かたづけを手伝いました(よく試験管を割って怒られた)。体育大会で自分のクラスの応援をさぼってその先生のクラスに行き、先生に「どうして自分のクラスに行かないの?」と言われ、思わず泣いてしまったこともあります。山本が理科を本気で勉強するきっかけをつくってくれた人です。山本が中3になったとき突然学校をやめてしまい、後で結婚退職されたということを聞きました。なんでいい先生なのに、結婚するとやめてしまうんやろ? せめて卒業までいてほしかった……。他にも中2の時の担任と中3の時の担任が結婚したりと、なにかと先生の結婚に縁がありました。
 中学ではサッカーをしていましたが、クラブの顧問の先生がまた厳しい人で、試合に負けた罰として部員が丸坊主になったり(山本は反対したけど、結局人生で一度だけ坊主になりました)、テスト前でも練習をしたりしていました。その先生も体当たりで仕事をしていたように思います。運動音痴で万年補欠だった山本が卒業するとき、「最後までやり通したことがえらい」とほめてくれたのが忘れられません。

 高校では生物(理科)の先生が印象に残っています。ちょっと言葉のきつい、皮肉っぽい言い方もする人でしたが、教科書に載っていない話もたくさんしてくれて、頭のよさを感じさせる人でした。高1で発表授業というのがあって、山本は耳について自分で調べてみんなの前で授業をしたのですが、その後で「全然なってない。勉強不足で最低だ」とケチョンケチョンに言われました。人前であれだけひどく言われたのは初めてで、頭の中が真っ白になってしまいました。それからしばらくその先生とは口を聞けなかったのですが、最後の授業で「君は出来は悪いが見込みがある。生物を本気でやってみるといい。」と言われました。その時は、え〜本気か? と思いましたが、なんとなくその言葉は頭に引っかかっていました。結局大学で生物を勉強することになったのは、その先生のおかげかもしれません。

 こうやって振り返ってみると、先生のことで覚えているのはいい思い出の方が多いです。怒られたり(なぐられたり)ひどいことを言われたこともあったけど、色々な先生から励ましてもらったおかげで、今の山本があるのはまちがいありません。みんなにもそういう先生に出会ってほしいし、山本もそんな教師になっていきたい……ですね。がんばらなきゃ。(2003/4/6)


 まだ続く「戦争」

   イラクの戦争はまだ続いています。空爆などが激しくなるにつれて、
   兵隊だけでなく普通の人たちへの被害も大きくなっています。
   アメリカ軍は、前回の湾岸戦争やアフガニスタンへの攻撃と同じように、
   劣化ウラン弾というものを使っています。劣化ウラン弾とは、ミサイルに
   ウランという金属を用いて、ミサイルの破壊力を大きくしたものですが、
   問題はそのウランから放射能が出ていることです。
   ウランから出る放射能によって、小さい子どもが白血病やガンになって苦しんでいます。
   イラクではこれらの病気のために、5分に1人の子どもが亡くなっているといいます。
   放射能は長い時間にわたって残り、そこに住む人たちに被害を及ぼし続けます。
   戦争をしている人たち、何とかしてほしい!
 



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