みんなが幸せになること

 前回のお便りで紹介した映画「夢追いかけて」を見てきました。
 中学の途中で目が見えなくなった人が、水泳でパラリンピックに出てメダルをとり、中学校の教師になるという本当にあった話です。思いっきり感動するというほどではありませんでしたが、なかなかよかったです。主役に本人が出ているというのもよかったです。
 パラリンピックで優勝したり生徒から手作りのメダルをもらったり、盛り上がった場面もありました。でも一番印象的だったのは、目が見えなくなり始めた中学生の主人公を、同じ学校のみんながさりげなく助けているところでした。階段のところで肩を貸してあげる女の子、教科書の問題を読み上げてくれる友だち、当たり前のようにまわりの人が河合君を助けている光景が心に残っています。

 山本の家の近くには盲学校があって、目の不自由な人が通っています。目や耳などの不自由な人は盲学校や聾学校に行くことがほとんどです。たとえば盲学校では点字(手でさわって読む字)を習うし、聾学校では手話を習いますが、みんなの学校で点字や手話を習うことはほとんどないでしょう。目の不自由な人がみんなと同じ学校で勉強できないのは、みんなのいる学校の方が『不自由』だから、と言うこともできます。

 人間は誰でも完璧ではありません。どんな人でも足りないところがあるし、完全な体を持っている人もいません。「障害者」という言葉がありますが、体や心のどこかに障害があるという意味なら、世界中のすべての人間は障害者です。目の不自由な人がわざわざ別の学校で勉強するのは、本当はあまり意味のない、みんなにとっても不自由なことだと思います。
 問題は、ある人のどこにどんな不自由があるかではなくて、その人に何ができるか、どうやって楽しく幸せに生きていけるか、ということです。この映画の主役である河合純一さんは、目が不自由であっても、中学校の教師として、水泳選手として生徒に何かを伝えることができます。数学や理科が苦手な人でも、他に自分ができることがあれば、その力で他人を幸せにすることができます。本当に生き生きとしている人は、自分だけのためではなくて、世の中の誰かのために自分の力を使って、他の人と一緒に幸せになれる人です。

 今みんなが勉強をしているのは、成績をあげたり、自分の行きたい高校に合格するためかもしれません。でも本当は、みんながそれぞれできることをしていくことで、お互いに助け合って幸せになるために、自分の中にかくれている力をさがしているのだと思います。人と競争するための勉強ではなくて、お互いが助け合うための力試しだと思えたらいいですね。(2003/7/10)
 河合純一さんのホームページ[夢を追いかけて] http://www.junswim.to/top.htm

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