歴史教科書問題について

 扶桑社の中学歴史教科書について、あるMLで投稿した文章をのせる。2001年8月。

 戦争は、どのような大義名分があるにしても、要するに殺し合いであり、日本が近代に行ったような戦争に関して言えば、殺人・略奪・暴行の繰り返しです。これは事実であって歴史観とは関係がありません。
 戦争がかっこいいというのは、どんな理由があるにしても、「人殺しがかっこいい」というのと変わりません。
 戦争が悪でないというのであれば、戦争以外で起こっている殺人・暴行・略奪が悪であるという理由を説明できません。「国が行っているから特別だ」という方が、よほど偏向しています。
 「必要悪」というならまだわかりますが、戦争を悪でないと考えるのは、国家の行為を特別視するという意味で、少なくともヒューマニズムに対する意味での国家主義であり、要するに人の命を大切にする発想ではないということです。これは現在の常識から考えれば、著しく偏向していると言えるでしょうし、人の命を直接扱う教師としてはおそらく許されない考え方でしょう。
 さらに言えば、戦争とは大規模な自然破壊でもありますから、理科を教える人間としてはとうてい是認できるものではありません。このような面も、学校で理科教師がきちんと教えるべきだと思います。

 戦争が政治的なものであることは事実だし、戦争について、また戦争を防ぐための政治の在り方について考えることは必要です。また戦争が政治行為であると同時に、一種の経済行為であることも知っておく必要があるでしょう。
 しかしその前に「戦争とは集団人殺しである」ことを、事実として実感として認識しておかなければなりません。それは「何よりもまず事実を学ぶ」ということから考えれば当然です。
 現在の教科書でそのようなことが学べるとは、私には思えません。特に扶桑社の教科書については、殺すこと・殺されることの実感からかけ離れた記述になっています。当時の日本政府の立場から「なぜ戦争に入っていったか」ということについて多くの説明がなされていますが、その前段階として「戦争とはどんなものか」がほとんどと言っていいほど描かれていません。
 つまり私から見れば、扶桑社の教科書は戦争についての記述量が多いのに、実は戦争についての事実をほとんど書いていない欠陥教科書です。
 自然科学が、自然についての事実の認識からスタートするように、歴史を学ぶのも事実の認識から始まるのが自然だと思います。そういう意味で、この教科書の前文の一節;

 「歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだと考えている人がおそらく多いだろう。しかし、必ずしもそうではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことなのである。(本文6ページ、下線引用者)」

 にもひっかかります。(注;2005年8月時点で出版されている版ではこの記述は変わっていて、下線部はなくなっている。これはこの本の歴史観の訂正ともいうべきもので、つくる会はこのことを内外にはっきり言うべきである)
 ある歴史的事実を、その時代の人がどう受け止めていたかは、当然人によって異なるでしょう。正しい事実を教えられていなかった戦時中の日本人が、

 「だが、このような困難の中、多くの国民はよく働き、よく戦った。それは戦争の勝利を願っての行動であった。(284ページ)」

 と書くのであれば、当時の国民に対して情報統制がどのように行われていたか、戦争に反対した人間がどのように弾圧され虐殺されていたかも書かなければ、事実をつかむことにはなりません。
 (私はこの部分などを読むと、この教科書の著者が、実は日本人をバカにしているのではないかという気がします。これは本質的な意味での「自虐史観」ではないでしょうか。)
 つまりこの教科書は、著者の歴史観にとって都合のいい「過去の人の考え」を持ち出すことによって、肝心の歴史的事実をねじ曲げてしまっています。その言い訳または予告とも言えるのが、上に引用した前文の一節ではないかと思います。これは確信犯であってミスではありません。私は初めてこの本を読んだとき、この前文だけでも「教科書としては失格ではないか」と思いました。

 もうひとつ「つくる会」支持の方がよく言われる意見として、
 「今の基準で歴史を裁くべきでない」
 というのがあります。私はこの文章そのものに反対するつもりはありませんが、この教科書や「つくる会」の言い分と照らし合わせると、ひっかかることがあります。

 たとえば太平洋戦争について、現在の基準ではなく当時の考え方でいけば、戦争を起こしたのはしかたがなかったのだ、というような意見があります。
 しかし当時戦争に反対していた人間がいなかったわけではありません。戦争は政治的行為ですから、政治によって避けられないことはあり得ません。しかたがなかった、というのは当時の基準ではなく「当時の一部の人間の考え方」に過ぎません。戦争をしなければ国が滅びたかもしれない、という考え方もありますが、国などいらないという考え方の人も存在したわけです。
 過去でも現在でも、考え方の基準は当然多様です。ですから「今の基準で歴史を裁く」という文自体が、正確には意味をなさないことになります。
 むしろ「今の基準で歴史を裁くべきでない」という言い方が「当時の一部の人間の基準で裁くべきである」という意味にすり替えられています。これは上の例に即して言えば、戦争を起こした人間の責任をぼかしてしまう結果を産みます。

 私は「歴史を裁く」などという偉そうな考え方にはあまり興味がありませんが、歴史的事実に対する責任については考える必要があると思います。それは歴史が現在につながっているからです。
 中国や朝鮮に対する侵略、また太平洋戦争などについて考えるとき、その歴史的事実が現在につながっていることを否定できません。私たちの祖先が人殺しである事実、私たちの祖先によって傷つけられた人間が今でも存在する事実から逃れることはできません。それを「自虐的」というなら、要するに歴史を真面目に学ぶ気が全くないか、自分に都合の悪いことには目を背けようとする幼児的態度でしかありません。
 もちろん日本人だけが「人殺し」であるわけではありません。現代で言えばアメリカは世界最大の「人殺し国家」でしょうし、その事実を直視し得ないアメリカ人がいるとしたら、それも幼児的であると思います。
 日本人が真に日本を誇りに思おうとするならば、かつての国家による人殺しの責任がどこにあったのかをはっきりさせ、責任をとるべき人間が責任をとるしかありません。
 日本人自身が、あの戦争についてきちんと学び、起こったことをはっきりさせ、誰がどのような責任を負っていたかをはっきりさせ、自らの手で戦争の責任を負う、ということをしなければならないと思います。

 具体的に言えば、戦争によって起こった事実を(子どもだけでなく、おとなが)徹底的に学び、かつ日本を支配していたファシズムの本質について学び、日本人がどれほど天皇制ファシズムに洗脳されていたかを知ることだと思います。洗脳から脱するのは容易なことではありません。戦争が終わったからといって、日本人が天皇制ファシズムから脱することができたと思うのは甘すぎます。

 もっと突っ込んで言えば、戦争の責任者であった昭和天皇の責任も問わなければなりません。彼の名の下に数十数百万の外国人や日本人が殺され、生活が破壊され、日本や他国の国土がメチャクチャになったことを考えたとき、彼に責任がないと考えるのはおかしいでしょう。彼は論理的には大虐殺の責任者であり、倫理的には(何ら責任をとらず天寿を全うしたことから考えれば)虫ケラ以下です(虫に失礼。トビケラファンとしてトビケラにも失礼)。そのような虫ケラ以下人間をたたえるコラムをのせる扶桑社の教科書の著者は、天皇制ファシズムを否定するどころか、その洗脳に未だにどっぷり浸かっていることになります。

 昭和天皇の戦争責任を記述した教科書が一つもないのは、もちろん学習指導要領のせいもあるでしょうが、日本人の多くが過去のファシズムを精算しきれていないことの反映でもあるでしょう(ああ、右翼の圧力もあるでしょう)。
 以前統一教会の洗脳から脱出するための作業について書かれた本を読んだことがありますが、それと同じくらいの「脱洗脳」を、日本人全体が行う必要があるのではないでしょうか。

 今回の教科書問題の本質は、扶桑社の教科書の記述だけではなく、他社の教科書を含めて全体が、天皇制ファシズムを肯定する方向にシフトしたことだと思います。
 私は教科書の検定制度にも反対ですし、教師が教科書を選べないことにも不満です。教師の用いる教材は、原則として教師が自由に選べるようにするべきだと思います。
 それとは別に、日本人全体が天皇制ファシズムについて正面から考え、ファシズムから決別するための方法を真剣に考えるべきだと思います。



 私は、この教科書に致命的な欠点があるとしたら、極論ですが、

 「これは日本人の歴史の本ではない」

 ということではないかと思います。
 たとえば、彼らの言う「自虐史観」は、日本政府がした虐殺や侵略を徹底して教えることが自虐的だ、という意味だと思いますが、日本政府が虐殺したのは外国人だけではなく、日本の中で戦争に反対した人々も虐殺しているわけです。
あるいは日本人全体を皇国史観に洗脳して人殺し軍団にしたてあげておいて、そのような日本軍のしたことを事細かに書くことを「自虐的」と言っているように思えます。
 これはつまり、歴史の主体が「日本人」ではなく、「日本人を洗脳し、外国人や日本人を大量に虐殺した、当時の日本を支配していた天皇制政府」であるということだと思います。そうでなければ「自虐」という表現は出てこないでしょう。
 あのとき命がけで戦争に反対してきた人から見れば、これは「日本の歴史」ではなく「日本を侵略したインベーダーの歴史」に見えるでしょうし、侵略された国の人々から見れば、この本は「日本人を人殺し集団に仕立て上げたカルト教団の歴史」に見えるでしょう。
 結局この本は「日本人の一部によって構成された、国家権力組織の歴史」というのが正しいのではないかと思います。教科書としてふさわしいとは、私にはとても考えられません。歴史観の問題ではないような気がします。

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