義務教育に手話と点字を

 NHK教育テレビで「手話落語」をやっていた。言葉と手話を同時にしているのだが、手話がジェスチャーのようで面白かった。
 ずいぶん前に手話コーラスをしたことがある。歌いながら手話をするのだが、歌を聴いている人からは「歌だけよりも手話コーラスがあった方がよかった」と言われた。彼女は(多分)手話の意味を理解していなかったが、それでも手話が音楽をより魅力的にしていたのかもしれない。
 養老孟司『バカの壁』は、私にはよくわからないところがあるのだが、2つ共感できる点がある。1つは環境問題の重要性の強調であり、もう1つは「他人の気持ちがわかることが大切だ」と何回も繰り返されているところである。
 他人の気持ちがわかるためには、お互いに対話をしながら想像力を働かせなければならない。何よりもコミュニケーションが必要とされるだろう。そのために具体的に何をするべきなのか、この本には書かれていない。
 たとえば小学生や中学生にとって、目や耳が不自由な人の気持ちがわかるためには、もう学校やろう学校の生徒との交流が有効であろう。色々な学校の日常的な交流は、お互いの生徒にとってよい影響があるはずだ。目や耳の不自由な人の気持ちがわかることは、おそらく「目の不自由でない自分自身」の気持ちが相対的にわかることにもなる。同質の人間だけでいたのでは見えなかったことが見えるようになるからだ。
 そのために、小学校や中学校で点字や手話の授業をすることはできないだろうか。クラブ活動など一部の限定された形でなく、義務教育の中で最低限のコミュニケーションができるような訓練と交流の経験を持つことが、英語や数学の勉強より価値がないと言えるだろうか。
 英語を学ぶ目的(の1つ)が外国人との交流であるならば、目や耳が不自由な人との交流のために手話や点字を学ぶことも義務教育の中で行われていいはずである。今の日本では、それは外国人との交流より大きな意味を持つのではないか。
 運動会などでの行事を共同で行うという方法もあるが、可能であるならば、もう・ろう学校に通っている生徒が、たとえば週に1日だけその子の住所の学区内の学校に通ってみることはできないだろうか。目や耳の不自由な生徒にも理解できるような授業を工夫することは、教師にとってよい勉強である。まわりの生徒にとっても、サポートしたり教えられたりする面が多くあるだろう。カリキュラムの調整など難しい点はあるだろうが、学習進度をある程度犠牲にしても十分返ってくるものがあると思う。
 色々な個性を持った人々が、お互いの価値観・感じ方・生活環境を知らないまま共存していくのは、差別の温床になるばかりではなく、長期的に見ればお互いの損失にもなるだろう。こういうアイディアは荒唐無稽なのだろうか。
(2004/5/17)


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