法律は戦争を防げるか
大阪で「平和・無防備条例直接請求署名」というのが行われている。チラシの一部を引用する;
大阪市が「無防備地域宣言」をすれば、国際法「ジュネーブ条約」により、武力攻撃されません。市民の命と財産が守られます。
さらに「無防備地域」大阪市は、国際条約にしたがい
@戦闘員、移動兵器の撤去
A固定した軍用施設などの使用禁止
B敵対行為の禁止
C軍事行動を支援しないこと
となります。戦争には全く協力しない都市になるわけです。
直接請求なので、有権者の50分の1(約5万人)の署名があれば市議会で議題になる。実際にこの条例が可決されるかどうかは別にして、このような条例の直接請求が達成されることそのものには意味があるだろう。私も署名したが、署名を書きながらこの条例の意味について考えた。
ジュネーブ条約の「無防備地域」に関する部分は、以下のような条文である。
59条(無防備地域)
1 紛争当事国が無防備地域を攻撃することは、手段のいかんを問わず禁止する。
2 紛争当事国の適当な当局は、軍隊が接触している地帯の付近またはその中にある居住地で、敵対する紛争当事国による占領のために開放されているものを無防備地域と宣言することができる。(以下略)
この条約が完全に守られるならば、たしかに無防備地域になることは最大の防御になるわけだ。(ただし条約を批准していない国にとっては無効。中国・韓国・北朝鮮・ロシアはいずれも批准。
ちなみに日本やアメリカはこの59条を批准していない。)
ここで問題になるのは「条約は本当に守られるのか」ということである。
アメリカ軍によるイラク人捕虜の虐待が問題になっている。捕虜の虐待は国際法に違反するが、実際にそれは起こった。戦争における残虐行為の背景には、政策とか正義感の欠如だけではなく、憎しみの感情があると思う。
戦場で仲間を殺され、命がけで戦っている中で、仲間を殺した相手に対して正当な捕虜として扱うことができるだろうか。殺人事件の加害者に対して、被害者の家族が「犯人に極刑を」というあの心理が、戦場でもあるのではないか。
現在の日本で軍事化を容認する意見が多いのも、北朝鮮の拉致事件に関連して「拉致の犯人が憎い」という感情に根ざしているのだろう。そういう感情、そして感情の拡大によって起こる「行動」が法律だけで止められるとは、私には思えない。
私たちは法律に律せられているが、同時に感情にも左右されている。法律に反する感情が高まれば、法律違反を悪としない意見が増えるだろう。現在の日本の公然とした憲法違反も、そのような感情に支えられていると思う。
私はこの署名に反対しているわけではない。しかし仮に無防備地域になってその条件を満たしたからといって、条約だけで平和が守られるというのは、やはり甘いと思う。なにしろ日本自身がこの条項を批准していないのだから、
「私は攻撃するかもしれませんが、あなたは攻撃しないでください」と言っているようなものだ。日本が仮にどこかの国を攻撃したとして、相手の国が反撃するときに「大阪は無防備地域だから、ここだけは攻撃しないでおこう」と考えられるだろうか。
それでも「無防備地域」には大きな意味があると思う。軍備を完全破棄することができれば、平和のための大きな前進であることにはまちがいない。
「攻撃されるかもしれないが、こちらは暴力に訴えない」という宣言は、究極の勇気である。世界中が無防備地域になれば戦争は起こらないのだから、世界に訴える意義も大きい。条約に頼って安全を求めるのではなく、「私たちは人殺しに荷担しない」という宣言として、この署名を受け止めたい。そして戦争を防ぐ手段として、法律とともに「人殺しを是とする感情」にどう対するかも考えなければならない。(これについてはまた書きたい)(2004/5/17)
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