実験より大切なもの

 昨年末「科学教育ボランティア研究大会」に1日だけ参加した。科学館や公民館のような場所でボランティアとして実験教室をしている人たちの集まりだ。私はボランティアではないが、実験ネタやコツを漁らせてもらいに行った。
 かの有名な京都国際会館の、なぜか畳敷きの部屋でパネルシンポジウムを行った。3人の方のお話を聞いた後、100人近くの参加者が10人くらいのグループに分かれ、それぞれのグループで科学ボランティアについての意見を出し合った。みなさんほとんどがボランティアに関わっておられる方で、大学や高校の先生、起業している学生さんなど非常にバラエティに富んだ人たちのお話は非常に面白かった。私のいたグループで出た問題点の1つは、
 小学校の高学年あたりから、子どもが実験教室に来なくなる
 ということだった。後で各グループの意見を発表してもらったが、他のグループでもそのような意見があったようだ。この問題点が私にはずっとひっかかった。

 私のような拙い理科教師に取り柄があるとしたら、通信を出していることとか「交換日記」をしていることとかマンガをかいていることとか授業で歌うこととか(?)ではなく、実験をしていることだと思う。理科だから実験をするのは当たり前だと言われるかもしれないが、学校ならとにかく塾で実験をするのは至難の技である。ガスは使えない、薬品も限定される、もちろん器具など1から揃えなければならず、経費もそうそう使えない。実験を売りにする塾もあるが、こちらはそのようにそれ相応の準備をした教室ではない。不器用な私がそれなりの数の実験をしてきたことだけは、「自分をほめて」やってもいいかと思う。
 しかし実験の最も難しいのは、そのような物品等の問題ではない。授業の中で、どのように実験をとりあげ活かしていくかという段取りをつくるのが一番厄介なのだ。本来実験は手品でも見せ物でもない。理屈を考え結果を予想し、それを確かめるための「思考の結論」なのだ。そのように持っていくのは非常に難しい。
 私の一番好きな実験は、密度の計測(中1)である。
 スプーンを3本出して見せ、「これはうちの家宝の金のスプーンだ。1本1万円や」などと言う。
 生徒はわかっているから「そんなんウソに決まってるやんー」と返す。
 「俺の言うことを疑うのかーーー? じゃあこれが金かどうか、確かめるにはどうする?」
 密度のはかり方はそれまでに教えてあるので、たいてい誰かが
 「水を入れたシリンダーをはかりにのせて、その中にスプーンを入れる!」と言ってくれる。
 理科年表の密度の表を配っておいて、子どもに体積と質量をはからせる。いつもは計算をいやがる子も、こういう展開になると割合がんばって計算するのだ。
 「密度はいくらくらいになった? これはホントに金やろ?」
 「ちがうで、先生、これは多分亜鉛やーー」「ちがうで、鉄だろーー」
 「ばれたなあ。実はあそこのスーパーで買った安物です」

 ……という安易なオチなのだが、この実験はたいてい受ける。単純すぎるほどの実験なのだが、予想を立て方法を考え実行し、計算して結果を確かめるというプロセスが、一応全部入っているからだ。

 高校入試でよく出る実験で「炭酸水素ナトリウムの加熱分解」というのがあって、私もたいてい塾で実演する。
  炭酸水素ナトリウム(白い固体)→二酸化炭素+水+炭酸ナトリウム(白い固体)
 という反応なのだが、これが物質の「分解」であることを納得させるのはけっこう難しい。見た目の変化だけを見ていると、炭酸水素ナトリウムの一部が蒸発して水や二酸化炭素に変わっているようにも思える。空気や酸素と反応した可能性も否定できない。1つの物質が3つの物質に分解していることを明らかにするためには、反応する可能性のある空気を抜いて真空中で加熱するか、もとの炭酸水素ナトリウムの質量と分解した3つの物質の質量を比べることが必要であろうが、この実験では真空にすることは無理だし、質量保存の法則が出てくるのはもっと後なので「質量を比べる」という発想そのものが生まれにくい。決定的なのは、この時点で原子や分子について全く学んでいないので、そもそも物質の化学反応というものがどういうものかイメージを描くことができず、目の前で現れている変化を原子レベルの変化と結びつけて理解することがほとんど不可能であることだ(ちなみに中学校ではこの反応の反応式を教えないので、実際にどのように原子の結びつき方が変化しているのか最後までわからない)。
 この反応についての入試問題の定番は、実験の際に気をつけること(試験管の傾け方、ガラス管を抜くタイミング)や、試薬についての知識(塩化コバルト紙やフェノールフタレイン液の変化、等々)であって、この反応が分解であることを論理的に追求(確認)するプロセスはまず問われない。実験の安全性などの問題もあるのだろうが、「とにかく実験作業をして結果を出す」ことに重点を置いているようにもとれる。
 生徒のコメントには「実験があってわかりやすい」というのが多いし、板書だけで授業をしている時よりも集中して見ているのもまちがいない。しかしそれは見せ物の楽しさではないか。どこにでもありそうな白い粉を熱すると湯気と気体が出てきて石灰水が濁る、加熱前にはなめられた粉が加熱後にはなめられなくなっている(これは私がなめるふりをして"実演"する。ヨイコはやってはいけません)、そういうナマの光景が楽しいのではないか。教科書の中だけのバーチャルな記述より、見て聞いて触って感じられる実物に魅力があるというだけではないか。
 実物に触れる意味は、たしかに理科において決定的である。昔と比べて理科嫌いが多いのは、子どもが自然にふれ合う機会が減ったことと無関係ではあるまい。塾の子どもが実験を歓迎するのも当然である。しかしそのような根本としての「実物体験」と、自然に働きかけて理論を探り出す「思考手段としての実験」とは少し違う。カルメ焼きをつくって食べるのは楽しいが、そこで止まったら子どもはいつか飽きる。その先に必要なのは、なぜカルメ焼きがふくらむのかを考えて、その仮説を確かめるための実験を設定して試すことだ。実体験としてはカルメ焼きがふくらむ方がよいが、ふくらむ理由を考えるなら"ふくらまない場合を試す実験"も必要なのだ。
 最初に書いた「小学校の高学年あたりから、子どもが実験教室に来なくなる」というのは、このこととつながっているのではないだろうか。理論を追求しない、ただやってみて楽しいだけの実験では、一時的に子どもを引きつけることはできても、本当の理科の面白さを伝えていくことはできないだろう。

 数年前 科教協で山下弘文氏(故人)の講演を聴いた。諫早干潟の干拓事業に体を張って反対し続けた彼は、「小学校では徹底的に自然に触れるべきだ。理論は中学からでいい」と語っていた。この主張は現状に対して過激だが正しいと思う。おそらく小学生に"実験"は必要ないのだ。自然からの直接的な体験や知識を目一杯ため込んでおくべきなのだ。現実の自然を知らない子どもにとって、教科書の中だけの頭ごなしの理論はむしろ有害である。炭酸水素ナトリウムの加熱分解を教える前に、たとえばケーキや入浴剤や胃薬で炭酸水素ナトリウムがどう使われているのか、パンとケーキのふくらみ方は同じなのか、そういう経験をさせておくべきだ。
 自然に十分触れながらであれば、理論を追求することはむしろたやすい。実物をいじりながら子どもが色々なことを試していくのは自然だし、その中で思いがけない発見をするのは私も何度も経験している。その段階では、教師が実験を提示するだけではなく、最初に書いた密度の実験のように子ども自身が事実や理論を追求するための方法として実験を考え出し、理論体系を構築するために実験があることを子どもが自ら体感するように仕向けるべきだ。教科書の実験をやればよし、というものではない。くり返しになるが、実験が最も面白いのはあくまで「自分で実験方法を考えて試すこと」なのであって、子どもからその楽しさを取りあげてはいけない。
 そう考えていくと、実験の前に「実物体験」をさせること、実験をすることだけでなく実験の方法を考え出すことを重視することが必要ではないかと思う。残念ながら塾ではそこまではとてもできない。ゆとり教育を見直すそうだが、多少理科の暗記知識が減ってもいいから、実物に触れる「ゆとり」は残しておいてもらいたい。(2005/2/16)


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