リベラルとコミュニスト

 (mixiに2010/7/9に書いた文章)

 菅直人が(旧)民主党を旗揚げしたとき、「共産党が政権を取るのを防ぐためにこの政党をつくった」と言ったのを覚えている。
 この人が若い頃市民運動に関わっていたという話を聞いて、学生時代のことを思い出した。

 私が大学に入った1982年は学生運動の最後の盛りといった時期で、中核派だか民青同だかが大学の教養部の広場に火の見櫓のような塔をつくり、連日アジっていた。授業中にヘルメットのお兄(姉)さんが教室に入ってきて黒板の両端にビラを貼り、私たち学生に「三里塚に行こう」などというビラを配っていた。先生は何も言わずに授業を中断してそれを見ていた。
 授業をちゃんと聞きたいからと、クラスの仲間と相談してこわごわ抗議に行ったこともあるが、そこで友人のひとりは逆に誘われて中核派に入り、その後消息不明になった。

 一方共産党員を父親に持つ私はリストに載っていたらしく、入学して程なく共産党の支持組織である民青同盟からしつこく勧誘を受けた。
 受験勉強の延長のように理屈ばかり滔々と並べ立てる民青の人たちはどこか青臭くて、反論する気もなかったが共感する気にもなれなかった。   忙しい仕事の合間を縫って、体を削るようにして朝早く起きて赤旗を配り、夜中まで生活相談にのっていた父の「背中」を見てきた私にとって、共産党とは理念ではなく信念だった。お気楽な学生が何を学び何を言ったところで体を張ったオトナに勝てるはずがない、もし自分が政治に関わるとしたら何かに体(命)を張るだけの覚悟ができてからだ、などと思っていた。

 おそらく多くの人にとって、思想とは本や授業で学んで身につくものではなく、自らの経験やまわりの人間の生きざまから直接吸収するものなのだと思う。政治家の世襲がいいとは思わないが、代議士の子どもが同じ仕事を志すことには、このような要素も含まれているのだろう。

 数年していくつかの市民運動に関わるようになったとき、そこにいる人たちのほとんどが共産党を嫌っていることに気がついた。
 共産党員は自分だけが正しいと思い込み協調性がない、反対意見を出すと共産党全体を否定されたかのように感情的になる、云々。
 おそらくそういう人たちの多くは実際に共産党の人たちに迷惑を受け、そのような結論に達したのだろう。義母も同じようなことを父の死後話していた。しかし同時に、体験から来る思いだけでない、私にはよくわからないある感情が共通して流れているようにも感じられた。

 一昨年読んだ丸山真男の本の中に
 「日本人の思想の基本は"すべてを包み込むこと"であり、何か絶対の価値基準を持ち他を否定する思想だけは、一般の日本人には受け入れられない。マルクス主義とキリスト教がそれだ」
というような文章があり、それで少し納得できたような気がした。

 その時の市民運動(わたぼうしもそうだった)の先輩や仲間は今でも尊敬しているし、今でも頭の下がるような活動をされている人もいる。しかし「すべてを包み込むような考え方以外は受け入れられない」というその人たちの感性に私がついていけなかったことも、事実だ。
 そして別の角度から見れば、「絶対的な価値基準を持たない政治運動は、本質的には世の中を変えることができない」というのが、今の私の結論だ。

 鳩山元首相が「友愛」を掲げたことは、本人の主観としてはウソではないかもしれない。彼が普天間問題で沖縄から基地を移設したかったことも、多分ウソではないだろう。
 しかし彼のような価値基準の定かでない政治家には、鋭い矛盾や対立を含む問題は何1つ解決できないのだと思う。自民党のようにアメリカの植民地であることを絶対的に肯定する価値観を共有する組織の方が、民主党よりぶれない分だけマシに見える(実際には本当は"見えている"だけ)という人も少なくあるまい。

 日本では、市民運動が政治の根本的な方向を左右した例が、私の知る限り1つもない。当事者の努力、そして現実に積み上げられている成果は存在しても、それによって国全体の進む方向が本質的に変わったことは、おそらく今までなかったのではないかと思う。

 菅総理がどれだけ庶民派だったとしても、市民運動と関わってきたとしても、彼が本来持っているかもしれない「善意」を実現することは、おそらく不可能だと思う。国内外の様々な対立を解決するには、妥協の技術も必要だろうが、最終的には本人の持つ価値基準を彼自身がどれだけ「絶対的に」支えきれるか(簡単に言えば、勇気があるか)にかかっているだろう。

 彼の今までの言動を見ている限り、そのような勇気は彼にはない。だから沖縄の問題も税金の問題もその他のことも、今までの政治のあり方を根本的に変えることはできないだろう。丸山真男の考えが正しいのだとすれば、それは彼個人の資質の問題ではなく、そういう人間しか日本人の指導者には選ばれないということだ。

 だから内閣支持率が落ちるのは当然だとしても、総理が(他党を含めて)誰かに変わって事態が好転するということもあり得ないだろう。よくも悪くも現状を根本的に変えるような「勇気」の持ち主を、日本人の多数は選ばないだろう。

 私は悲観しているわけではなくて、この状況の中で勇気のない私たちがどうしていくのが一番いいのかを、冷静に考えなければならないと考える。この国がどうなるか、どうなるべきかというのは、おそらく政局の問題ではない。そのことを直視できるかどうかが、最も大きなことではないかと思う。




(以下は自分のコメント)

 わたぼうしでピースブックをやろうと○○さんが言い出した時、今までとは違う運動を……という言葉の中に、やっぱり共産党(など)への嫌悪感を感じました。××さんともそんな話をしたことがあります。

 どの活動にもいいところと悪いところがあるけれど、共同して国を動かすことができないという意味では革マル派も共産党もわたぼうしも同じように限界を抱えているので、何とかできないかと思います。




 丸山真男の考察はさすがといった感じで、もっと早く読んでいたらと思っています。

 理屈ではなくその場の雰囲気で「すべてを包み込む」一致点をつくり出し、いわばなあなあでやっていくのが日本人の基本的なパターンだと思います。
 それがいつでも悪いとは思いませんが、国全体の根本的なことを徹底的に考えるとかいう大きいことになると、動きがとれなくなってしまうのではないかと思います。坂本龍馬に人気があるのは、史実とは別に、彼が「根本的なことを徹底的にやろうとした」人間として見られているからだと思います。

>個人的には、ある程度確立した価値基準をもちながら、周囲を受け入れる(包み込む)バランスをとっていければいいと思いますが……

 お気持ちは少しはわかるつもりですが、結局「バランスをとる」という発想そのものが日本人的なものだと思います。それが悪いということではありませんが、現状を変えるためには「バランスをとる」ことの意味を突きつめて考える必要がある気がします。




 人間ひとりひとりを大切にすることと、世の中を大きく見て変えていこうとすることの間に、どうしてもズレが出てくるのだと思います。それは勉強とか知識とかだけでは解決できないように感じます。そういうことを学校ではほとんど教わらないということにも、権力の(おそらく無意識の)企みがあるように見えます。

 どういう解決法があるのかじゅんじゅんにはまだわかりませんが、少なくとも自分が変えていくべき目の前の現実、そして今の自分にできることを直視し続けなければならないと思います。格好悪くってもあがくことにしか生きる意味はない……なんてかっこよく言ってる場合じゃないね。




 全共闘という言葉は私には本の中だけのもので、高校生が政治活動をやっていたとか入試が中止になったとかいう話を聞いて、よくそこまでの勇気があったなあと思った記憶があります。18才の時に読んだ「20才の原点」も印象的でした。

 ……でも今振り返ってみると、それも多くの人にとっては1つの「流行」でしかなかったのではないかと思います。政治に主体的に関わることをやめてしまった人たちの生きざまを私なりに見ていると、古いですが「プチブル」という言葉も頭の中に浮かんできます。

 命をかけて世の中を変えていこうとするのであれば、もう少し違うアプローチが必要なのではないかと思います。教育者の端くれとしてできることもあるだろう、とは思っていますが……




 たしかにひとりひとりの人間は微力だと思いますが、無力だとは思いません。社会や会社の中で実力をつけていきながら、まわりの人との関わりの中でできることをやっていく、自分の意思で自分の行動をコントロールする、それは(多分)誰にでもできます。

 1つは、気長になることだと思います。デモに参加すること、署名をすること、それだけで何の効果もないように見えることでも、全く世の中に影響がないわけではありません。権力のない人間にとっては、根気と協力しか武器はありません。仲間をつくること、少しずつでも前に行けたらそのことを否定せず喜べることが、必要だと思います。




 たしかに今は奴隷時代よりはましになっていると思いますが、私たちが奴隷よりも幸せになっているかどうかは、別の問題だと思います。

 私は「運動に意味がない」と言っているのではありません。それぞれの運動に意味はあるし、してもムダだとは思いません。
 しかしそのような運動があってもなお、イラク戦争も原発建設も止められないという現実とどう向きあうか、運動のあり方や政治との関わり方が今のままでいいのかと言うことを、問い続けなければならないと思うのです。

 ひとりひとりが微力であることを恥じる必要はないし、無力だからといって諦める必要もないと思いますが、今までのやり方・考え方でいいのかどうかを追求する必要はあると思います。

 積分定数さんが書かれているような運動のいやな面が必然なのか、嫌な面を持たない運動が成り立ちうるのか、または「いや」と感じてしまうような積分定数さんや私(たち)の感性にそもそも問題があるのか、そのあたりを考えることには、意味があると思います。

 私は突きつめればむしろアナーキストなので、私が私であること自身がひとつの「運動」になることが理想なのですが、ほど遠いというより逆に進んでいるような気もします。




 運動論というか組織論というのは、いわゆる左派ではよく取り上げられるテーマだと思うのですが、結局理屈と現実がかみあわないというか、すぐれた組織論があってもそれが活かされていないというケースが多いように思います。

 今回の話で言うと、ひとりひとりの思いを大切にする、という意味での民主主義をどれだけ頭の中で考えても、日本人(の多く)がそもそも民主主義に合った感情の持ち方をしないために、結果として積分定数さんの言われるような歪んだ運動のあり方になってしまうのではないかと思います。外国でもそういうことはあるのかもしれませんが、要するに「民主主義が嫌いな人間もいて、そういう人がヘゲモニーを握りやすい」ということではないでしょうか。

 可能かどうかは別にして、理論的には「特定の指導者を作らない、いわば全員が指導者であるような組織」しか民主的ではあり得ないと思います。そういうことのできる人間がいないとは思いませんが、組織のすべての人間にそこまでの強さ、緊張感を持った平等に耐えられる強さを求め得るのかどうか、私にはわかりません。

 私はトロツキーのファンなので、共産党が誰かをトロツキスト呼ばわりすることは大嫌いですが、トロツキーのような天才が普通の人とうまく組織を作ってやっていけるはずがないという意味では、共産党の言い分はある意味正しいのだろうと思います。

 これ以上は私の頭では考えられないのですが、結局世の中を変えていくのに組織論とか運動論とかから逃げることはできない、それは特定の政治組織の問題ではなくて日本人すべての民主主義の問題に関わるからだ、というのが、率直な感想です。




 日教組の悪口をあちこちで聞きますが、実際に日教組の先生がどんなふうに生徒と関わり、どんな活動をしているのかをきちんと知っている人は少ないのではないかと思います。共産党もそうです。

 じゅんじゅんから見れば、日教組や共産党のしていることは、理屈だけで言えば何もまちがっていません。高槻南だって廃校にする必要があったとは思いません(根本的に高校の設定のあり方を考え直せばすんだはず)。

 でも理屈以外の何か、「正しいことが幸せとは限らない」「正しくてもしんどいこと、かなわないことには関わりたくない」もっと言えば「お上に逆らう人たちは正しくても"よくない"」という気持ちが多くの人の中にある限り、共産党も日教組も孤立していくしかないでしょう。

 私はそういう、共産党や日教組に対する反感や偏見がすべてまちがっているとは思いません。共産党や日教組の人の中にも、それと裏返しの反感や偏見があるからです。考え方や意見ではなく、感情の持ち方が違う人たちが共同して何かをやっていくという経験を、おそらく日本人は今まで1度もしていません。そういう一種の未熟さが共産党や日教組の人たちにもそれ以外の人たちにも残っている限り、この国は「封建主義」から抜け出せないのではないかと思います。

 教育者の端くれとして考えるのは、「違う人同士が、多少気持ち悪くても共存して協力していく方法を考えよう」と呼びかけることです。

 ずいぶん前に学校でクラスを持った時、しつこく言ったのは
 「どんな人にもいいところと悪いところがある。
 クラスのみんながうまくやっていくには、みんなのいいところを見つけて認め合って、力を合わせられるところで協力することだ。
 好き嫌いはあってもいいけど、嫌いな人とでも協力できるようにしよう」
 ということでした。

 それがあの子たち(もうすぐ30才!)にどれだけどんなふうに伝わったのかは、わかりません。
 でも今でも、私はそれが「この国を変える」ための一番大きなカギになるような気がしているし、前ほど大きな声では言わなくても、今の目の前の子どもたちにも同じことを伝えていきたいと思っています。

 自分自身の可能性には絶望することもありますが、子どもの可能性には絶望していません。だから抗鬱剤を飲んでヨタヨタになりながらでも仕事を続けていけるのかな、と自分では思っています。(2010/7/9)



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